乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

佐和隆光『経済学とは何だろうか』

学部生時代に読んで以来、およそ20年ぶりの再読になる。著者の本来の専門は計量経済学統計学だが、今日では環境経済学者あるいは経済評論家としての顔のほうが有名であろう。

本書は、科学論(とりわけトマス・クーンのパラダイム論)の視点から、戦後アメリカにおける経済学――新古典派経済学――の制度化と(本書が公刊された1982年)当時強まりつつあった経済学の保守化(反ケインズ主義)傾向を批判的に論じたものである。

経済学の制度化とは何か? 著者自身の言葉に耳を傾けてみよう。

少なくとも米国の経済学界では、自然科学界と同様に、学術論文を数多く著わすことが「業績」の尺度とされており、書物を著わすことは、自らの仕事を集大成する上では有意義であっても、「業績」評価の上ではあくまで副次的としかみなされない。
学術論文を掲載する雑誌は、レフェリー制を採用することが義務づけられている。言いかえれば、レフェリー制を採用しない雑誌に掲載される論文は学術論文として認めないというルールが、アメリカの経済学界においては、しかと確立しているのである。(p.86)

組織的な「訓練」によってではなく偶発的に現われる、少数の知的エリートたちの専有物であったヨーロッパ社会科学は、第二次大戦後のアメリカにおいて、みごとなまでに「大衆化」された。古典を読破するための語学力も、あるいは現実社会にたいする人並外れた洞察力も、社会科学の専門家となるための必要条件ではもはやない。初歩的な微積分と行列代数の知識と、宿題・試験のくりかえしにたえるだけの忍耐力さえあれば、数年間の大学院教育を経て、経済学のプロフェッショナルの資格証明(博士号または修士号)を獲得できるのである。(pp.94-5)

公認の教義に敵対する者に肉体的な「私刑を加え」たり「虐殺」したりするかわりに、狭量な専門主義と専門誌のレフェリー制、さらに特有の研究費配分方式と雇用制度などによって、敵対者を追放するしくみが学界にちゃんと備わっている・・・。ただし断わっておくが、こうしたしくみは、経済学界に固有のものではなく、〈制度化〉された科学全般が共有するしくみなのである。
しかしながら、米国経済学界に、いかに巧妙な反逆者淘汰システムが備わっていたにせよ、ただそれだけの理由で、おなじ流儀の経済学が、数世代にわたって安定的な「支配」を持続しえたとは信じがたい。おそらくその背景として、米国とその文化圏において、新古典派理論が「理性にかなうもの」であった、という事実を見逃せないであろう。(pp.110-1)

どのような理論にもそれが生み出され根づくようになった歴史的・社会的背景がある。日本で新古典派理論が根づきにくい――経済学の制度化が遅れている――理由は、「方法論的個人主義と数量的認識を骨子とする新古典派経済学」(p.35)特有の思考様式が「有機体論的思考に強い」(p.34)「日本社会の〈文脈〉に、もうひとつしっくりとはまらない」(p.29)からではないか、というのが筆者の診断である。

日本におけるこのような経済学の制度化の遅れは、経済学教育の規格化(あるいは教科書化)の立ち遅れと結びつけられて理解されている。*1

・・・日本において経済学教育というものが〈規格化〉されていない・・・。たとえば、経済原論の講義内容は、大学によって、あるいは講師によって、まことに千差万別である。経済原論の〈教科書〉は無数にあるが、おのおの著者の個性と学風を色濃く反映しており、標準的教科書の何たるかについては、いまもって不鮮明である。自然諸科学にくらべて大学院進学者の数は圧倒的に少なく、大学院修了者を企業や官庁が採用するなどということは、例外的にしか起こらない。大学院はアカデミック(学者)養成の場であるという古来の伝統が、何はばかることなく生きている。(p.135)

1979年にサッチャー政権(英)が、81年にレーガン政権(米)が成立し、現実政治の場面で「政府の失敗」を論難し「小さな政府」を掲げる保守派の影響力が強まった。このような政治的保守化傾向に後押しされて、経済学界においてもマネタリズム、合理的期待形成学派、サブライ・サイド学派などによる右からのケインズ批判が勢いを増した。このような経済理論の党派性や政治的文脈への依存性は、今では根井雅弘氏の著作などによって広く知られているところだが、その嚆矢となったのは間違いなく本書であろう。保守化する経済学への危機意識を告白しながら、本書は結ばれている。

保守的経済学の諸学派は、いずれも、「政府の中立性」という仮定の非現実性を論難する半面において、「市場の完全性」を当然の前提におくという、一種の自家撞着に陥っているのではあるまいか。(p.201)

「通常科学」の路線をひたすらに歩んできた〈経済学〉が、後続者にたいして魅力あるパズルを生み出せなくなったとき、あるいは、価値規範における保守化傾向が究極まで進展するとき、社会科学の歴史において唯一の〈制度化〉された学問である〈経済学〉が化石化する公算はすこぶる大きい。(pp.206-7)

今日、新古典派経済学にもとづく経済学教育の制度化が見事な「成功」を収めているので、本書の批判的な筆致にとまどいを覚える若い読者も少なくないように推察される。本書の憂いを含んだ予言はそれほどまで見事に的中してしまった。新古典派経済学ケインズ経済学に関する知識の乏しかった学部時代の僕には、イメージがわきにくかった本であるが、今回読み直して、その主張のクリアさに感服した。岩波新書の古典的ラインナップの一冊として確固たる地位を築いているのもうなずける。

経済理論と(その文脈としての)現実政治との対応を考える場合、本書が掲げる《「保守」対「リベラル」》という対立図式は、今日では本書が書かれた当時ほど明瞭に見えるものではなくなってきている。新たな彫琢が必要であることは間違いないが、こうした不満は本書の価値をまったく損なうものではない。

なお、同じ著者による『平成不況の政治経済学―成熟化社会への条件 (中公新書)』(中公新書)は、本書と肩を並べる名著であると個人的に思っている。併せて読まれることをお勧めしたい。

経済学とは何だろうか (岩波新書)

経済学とは何だろうか (岩波新書)

評価:★★★★☆

*1:本書が公刊されたのは1982年であるが、その前年(1981年)には中谷巌の教科書『入門マクロ経済学』(初版)が公刊され、べストセラーを記録するなど、日本における経済学教育の教科書化・大衆化がまさに幕を開けた時代であった。それから今日までの28年間、日本の経済学教育はアメリカの背中を一心不乱に追いかけてきたように思われる。1990年代に文部科学省の大学院重点化政策によって大学院生が大幅に増加したが、そのことも経済学教育の教科書化・大衆化を必然的に加速させた。日本の経済学教育の「悪しき」伝統は着実に消え失せつつある。