「空気」をキーワードとして展開される卓抜な日本文化論である。山本七平『空気の研究』に多くを依拠しつつも、日本語教師としての経験を活かして、「空気」の形成と日本語の特質(婉曲表現、略語・造語などの多用)との関連を深く掘り下げたことは、著者のオリジナルな貢献だ。
(小泉純一郎やみのもんたの)コードスイッチ話法の魅力(権力性)を擬似的なプライベート空間の演出(私的言語による公共空間の侵食)に求める(p.96以下、および、p.173以下)は、秀逸なできだと思う。学生のレポートや論文をチェックしていて、「です。ます」調と「である」調の混用が最近やたらと目立つような気がしていたのだが、こんなところに原因の一端があったとは驚きだ。
「キレやすい人」が増えている、と言われる。それは「日本語の窒息」と関係がある。「初対面の人間との間で、あるいは利害の対立する局面で、問題解決をする日本語が失われている」(p.70)。それでは、どうすれば我々は問題解決のための日本語を取り戻せるのだろうか? 敬語教育によって、と著者は主張する。
驚く人もあるかもしれないが、敬語とは話し手と聞き手の対等性を持った言葉である。そして、いわゆる「タメ口」とはむき出しの権力関係を持ち込んだ不平等な言語空間を作り出すものなのだ。(p.185)
「タメ口」ではニュアンスがむき出しになるのである。内容も、表現の細かなところも、感情や権力関係がむき出しになる。自尊心も、卑屈な感情も、無神経さも何もかもがむき出しになるのだ。その結果として、極めて近くて対等な人間関係でもない限り、安定的な「空気」はできない。タメ口が平等というのは幻想である。(pp.189-90)
この「です。ます」という標準スタイルを通じて、会話に参加している人間同士の「対等性」や「適切な距離」を置く、つまり公共性というものを実現することができれば、日本社会の閉塞感も和らぐのではないだろうか。(p.194)
著者は日本語の「乱れ」を指摘して「美しい日本語」を取り戻そうなどと主張しているのではない。異なった価値観や背景、性別、年齢の人間がそれぞれに個性を主張して共存するために、相手との心地よい距離感を保つような日本語表現のあり方を編み出していくべきだ、と主張しているのである。具体的には、「場の空気」から生まれる権力をチェックするための道具としての敬語(丁寧語)の有用性を再認識すべきだ、と言うのである。
「千円からお預かりします」や「お茶のほうお持ちしました」といった、いわゆる「コンビニ・ファミレス敬語」(p.185)の(前々から個人的に気になっていた)何とも言えない気持ち悪さについても、日本語の敬語が本来的に有している話し手と聞き手の対等性の喪失という観点から、説得力のある分析が展開されている。相撲中継のインタビューの分析(p.186)も「お見事」の一言に尽きる。知的刺激に満ち溢れた楽しい一冊だ。
齋藤孝『子どもたちはなぜキレるのか (ちくま新書)』と比較するのも面白いだろう。
- 作者: 冷泉彰彦
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