乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

荒井千暁『職場はなぜ壊れるのか』

産業医が見た人間関係の病理」という副題が付されている。産業医として職場を見つめ続けてきた立場から、成果主義が職場の人間関係にどれほど大きな軋轢をもたらすかを告発している・・・一見したところ、そのような内容の本に見える。しかし、じっくり読んでみると、実は話はそう単純ではない。

著者は次のようにも述べている。

成果主義の弊害といわれてきた「長期的なチャレンジができない」「職場の雰囲気が悪い」「昇格評価に納得できない」とする声は、成果主義を導入していない企業の従業員たちからも同様にあり、その数字は成果主義を導入している会社と、していない会社とで、ほとんど差がなかったというのです。(p.154)

むしろ著者は、職場から「教育」というシステムと思想が消えつつあることに、いっそう大きな危惧を抱いているようなのだ(pp.14-7, 112-4)。成果主義導入の影響で上司が部下の教育をないがしろにしがちであることは事実だが、最先端事業に挑むベンチャー企業では、そもそも教育は「しない」以前に「できない」。仕事内容が専門的すぎて上司よりも部下のほうが多くを知っているからである。

現在問題になっているのは、まず教育する技能があるのに教育しないことであり、次に教育しようとしても方法がないことです。(p.112)

いずれにせよ「人間同士の距離は徐々に離れてゆく」(p.113)。これこそが著者にとって第一義の問題であるはずで、成果主義という制度の評価が第一義の問題ではないはずだ。それにもかかわらず、著者は本書のいたるところで成果主義批判を繰り返すので、いちばん言いたいことが何なのか、いまいち呑み込みにくいのだ。それが本書の欠点だ。

上司が部下を教育できないのなら、従業員一人一人に自発的に学んでもらうしかない。そうだとすれば、どのような職場環境が自発的な学びを促進するのか(それは断じて成果主義ではない!)について、我々はもっと思いをめぐらせるべきである。明示的ではないが、著者はそのように思考しているように思われる。著者の本懐がいちばん如実に表明されているのは、おそらく以下の引用箇所であろう。

英国の精神分析医であるジョン・ボウルビィさんが「安全基地」という概念を提唱しています。愛着を形成した乳児は、やがて常に母親に接触していなくても安心感を得るようになり、母親の居場所を中心として捜索活動に熱中するようになります。このとき、安全が保証されていると感じる母親の居場所を「安全基地」と、ボウルビィさんは名付けました。健全な愛着を形成し、信頼できる母親を持った乳児は、やがて母親を安全基地とした探索活動を活発にしてゆくようになるといいます。
安全基地があると探索活動というチャレンジが活発に行われ、逆に安全基地が保証されなければ、自由気ままに学ぶことができないのでしょう。
現代の職場に欠けつつあるのは何かと考えたとき、わたしはこの安全基地ではないかと思いました。安全基地が保証され供給されていれば、労働者たちも自由気ままに学んでゆくのではないか。萎えてしまったように見え、もう芽生えることもなくなったかのごとくいわれかねない未知なる領域への模索を、成果主義などという姑息な人事考課を放り出して、もっと真剣に議論すべきなのではないのか。そう思えたのです。
・・・職場における安全基地――それはおそらく、マイペースで熟考することができるような内的環境なのです。(pp.208-10)

生活や仕事をしてゆく上で、興味をかき立てられるような爆発力はどこへ行ってしまったのでしょう? 噴出するものは不満や不平ばかりで、マグマのように湧き立つ〈知〉への興味は、「モラルの低下」や「相互扶助のはかなさ」とともに雲散霧消してしまったのでしょうか? あるいはモラルや相互扶助なぞ、もはや過去の産物でしかないのでしょうか?
実をいえば、本書で考察してみたかったのは、こうした問題でした。(p.172)

「即戦力」によって構成される組織は、裏を返せば、「(内的環境としては)学習しない組織」ということになる。そのような組織は本当に強いのだろうか? 「学び」や「モラル」の前提として「安心(=安全基地としての職場)」が必要ではないだろうか? 本書を読んでそういった問題に気づかされた。

職場はなぜ壊れるのか―産業医が見た人間関係の病理 (ちくま新書)

職場はなぜ壊れるのか―産業医が見た人間関係の病理 (ちくま新書)

評価:★★★☆☆