乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

山崎正和『社交する人間』

グローバル化の進展によって、現代社会は「リスク社会」と呼ぶべき様相を呈してきている。「現代人の不安が未曾有の窮迫を告げているとすれば、これに対処できるのは狭義の社会政策ではなく、より根本的な人間の生きかたの修正しかない」(p.365)、つまり、社交の復権しかない、というのが本書における著者の基本的な立場である。

現代では社交の理念が著しく衰退してしまった。社交は、「まじめな仕事」と二元的に対比されることで、それからの「逃避」、面倒な社会的義務、「遊び」にすぎないものとして、否定的に語られがちである(第4章)。しかし本来それは人間が人間らしくあるための不可欠の営みなのだ。

今日の我々の不安の根源には他者の喪失が横たわっている。社交の理念を再評価することは、顔が見える関係がもたらす安心感――たとえそれが失敗とデメリットの共有から生じる安心感であっても――を再評価することであり、安心できる社会としての「社交社会」「信用社会」への転換を展望することである(終章)。本書はそのような希望がこめられた卓抜な現代社会論である。

著者の本業(?)は劇作家であるが、その面目躍如とばかりに、本書の方々で著者自身の芸術論・演劇(身体表現)論が開陳される。それが社交の衰退した現代社会に対する批判へと滑らかにつながっていく。短くない期間演劇活動に関わってきた僕は、こうした叙述スタイルに大いに魅了された。

経済思想史家としての僕も本書から多くの知見を得た。本書のキーワードの一つ「作法」は、ポーコック思想史学のキーワードである。第10章は半分以上がアダム・スミス論――『道徳感情論』について――である。

しかし、元演劇人としてよりも、経済思想史家としてよりも、大きな知的刺激を受け取ったのは、大学教員としての僕だ。

現象として見れば、社交の時間は人が適度の緊張を保ってくつろぐ時間であり、社会の場所はなかば公的な形式を備えた私的空間である。社交する人間は、労働の要求する固い時間割からは解放され、しかしなお一人きりの休息が与えるじだらくは許されない。一方で自由に選んだ親しい仲間に囲まれながら、他方ではその仲間が暗黙のうちに強制する規律に従わねばならない。いいかえれば、時間も空間も、友人仲間を囲いこむために閉じられていなければならず、同時に第三者を受け入れるために開かれていなければならない。・・・。
その日ごとに、また刻々と変わる話題ごとに、参加者は暗黙のうちにおのおのの役柄を選んでそれを演じる。主人役はもちろん、主客をあいてに笑いを誘う道化役、わざと議論を挑む敵役など、多彩な登場人物が生まれて芝居の一座が形成される。(pp.28-31)

これってうちのゼミが目指しているところそのものじゃないか!?

数年に一度出会えるか出会えないかと言ってよいほどの名著である。これからもことあるごとに僕は本書を参照し続けることになるだろう。

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

評価:★★★★★