乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

内山節『哲学の冒険』

かれこれ6年以上も続けているこの「乱読ノート」であるが、しばらく書かないでいると、書かないことが当たり前になってしまい、書くのが面倒くさく感じ始める。これは危険な兆候である。もちろん、僕が活字から離れた生活を送るなんてありえないわけで、ここ1、2か月は研究上(論文執筆)の必要に迫られて専門雑誌に掲載された研究論文を中心に活字生活を送ってきた。狭義の「本」からしばらくご無沙汰していたわけだが、さすがに飢餓感が強まってきた。そこで手に取ったのが本書である。自分自身のビジネス・エシックス研究で労働倫理が主たるテーマとなりつつあるので、興味深い労働論が展開されていそうな本書が目についたわけだ。

著者は長らく在野の哲学者として活躍してきた(最近立教大学教授の任に就かれたようだ)。本書は『毎日中学生新聞』に1983年から84年にかけて連載された「哲学のロマン」を一書にまとめたものである。成立経緯からすれば、中学生向けの哲学入門書ということになる。確かに文章も論理もまことに平易だが、公刊されてから二十余年の間に若者の活字離れが著しく進んでしまったから、中高生が本書を読み通すのはしんどいだろう。僕は大学生向けだと思う。

数多ある哲学入門書と比べた場合、本書はどのような特徴を有しているだろうか? 「哲学は美しく自由に生きるための学問」というエピクロスの言葉がことあるごとに引用されていることからもわかるように、著者は哲学の使命を社会の矛盾の構造を分析することよりも人間たちの生きることの悲しみ(絶望)を凝視することに置いている。身近な対人関係の悩みがいとも簡単に生きることへの「絶望」に転化してしまいかねない――「大きな物語」が終焉し、親密圏が肥大化したためだろう――今の日本の若者にとって、このような著者の哲学観は共感できる部分が大きいように思われる。悲しみ(絶望)の中身にどれほど大きな質的変化があったとしても。

本書に登場する数多の哲学者の中では親鸞キルケゴールがとりわけ印象深かった。「この世を本当に美しく生きられる世界にしたい」というエネルギーは絶望の凝視によって初めて引き出される、というのが親鸞の教えの核心であるらしい。キェルケゴールの哲学はその難解さで知られるが、以下に引用する件はその難解な哲学の核心をきわめて平易に語っている一文として特筆に値する。

人間の精神は「有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との総合である」*1
そう、人間には永遠に価値を失わないもの、無限に自由なものなどを求めていく精神がある。眼の前の利益を超えて本質的なものを探していく精神だ。ところが、人間は現実的なことを求めていく精神ももっている。たとえば人類の未来を探していく精神と、今日の金儲けを考える精神を、一人の人間がふたつ一緒にもっているように。
そのふたつの面がうまくおぎないあって、統一している間はいいとキェルケゴールは考える。ところが近代社会になるとそうはいかなくなる。なぜなら毎日毎日をきわめて現実的に生きるところから誰も逃れられなくなって、そうしているうちに精神まで現実的になってしまうからだ。人間たちは心のなか=内面がひきさかれれてしまって、現実的なことを考える精神と永遠のことを考える精神が分裂してしまう。
いまや人間たちは、永遠のものを求めて高貴に生きることはできない。しかも誰一人としてこの状態から逃れることはできない。キェルケゴールはこのことに絶望を表明したんだ。(pp.130-1)

もっとも、社会主義の理想という「大きな物語」が完全に崩壊していない時代に執筆されたためか、マルクス主義への辛口な評価とは対照的に、存在論社会主義(初期社会主義)の協同社会のヴィジョンへの評価(第2章8)がやや甘すぎるように思われた。

哲学の冒険 (平凡社ライブラリー)

哲学の冒険 (平凡社ライブラリー)

評価:★★★☆☆