乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

三枝誠『整体的生活術』

整体に通いだしてから2ヶ月半。僕の生活は大きく変わった。身体が軽く楽に感じるようになっただけではない。世界の感じ方そのものが変わった。食べる、飲む、歩く、寝る、排泄するといった日常の当たり前の所作の一つ一つが、すごく大きな意味を帯び始めるようになった。「たまる・よどむ(⇔流れる)」「閉じている(⇔開いている)」といった感覚が鋭敏になった。今の自分が自然の流れに乗っているか乗り損ねているか、無理をしているかいないかが、わかるようになってきた。

本書の言う整体とは、マッサージのような対症療法にとどまらず、「身体のバランスを整えて生きる」という思想のことだ。だから整体は「生活術」なのだ。誰とつきあうのか? どんな服を着るのか? どんな場所に住むのか? 何を食べるのか? これらについて考えることは、人間が健康に暮らしていくためにどうしても必要なことだ。これらのバランスを整えることであなたの人生は確実に好転する。バランスを整えるために「嫌われること」「別れ」「無作法」「雑菌」が必要な場合すらある。このように著者は説く。整体に通いだして変化を体感したからだろう、ほとんどの叙述に「なるほど、その通りだ」と頷いてしまう。

簡単にいえば、身体尺度というのは、わからないことは身体に聞けということなんです。迷ったら、身体が行きたがっているほうへ行けばいい。そういうことには、いつも敏感でいたほうがいいと思いますね。身体に対して、ごまかすようなことばかりしていると、しまいには何をごまかしているのかさえ、わからなくなってしまう。胃が痛くなるような相手と無理に酒を飲むことはないし、気持ちよくないセックスを続けることもない。身体がいやがっているなら、やめなければいけません。
たとえば部屋だって、何平方メートルじゃなくて、六畳と言われるとピンとくるでしょう。六畳の広さを体は知っていますから、我々は身体で考えたほうが腑に落ちるのです。「本腰を入れる」なんて言葉がありますが、実際に、自分が本当にやりたいことをやる時には、人間の腰は入るものです。腰が入っているかどうかを見るのは、自分が本当にやりたいことなのかを調べる時の大事な手段です。それから、「肩の荷がおりる」という言葉もありますが、実際そのとおりで、人は安心したりすると、ポコッと肩が下りるんです。(pp.97-8)

著者は十歳までの身体記憶が心の型を決定すると説く(pp.166-9)。ところどころ岩月謙司の家庭内ストックホルムシンドロームのような分析も見られるので(pp.76-7)、人間が身体記憶に一方的に支配されているような印象を受けるが、そうではない。著者は「成長とは、身体記憶の休みなき書き換え」(p.188)とも言っている。住居を変えることは身体記憶の書き換えであるとも(pp.170-2)。

思想としての整体のコアの部分をもっと深く知りたかった僕には少々物足りなかったが、著者の軽妙な語り口はそれだけでも魅力的で、読み物として十分に楽しめた。特に第2章のセックス論や第8章の住居論には大いに共感した。やはり鴨川徒歩圏内に住むことは捨てられない。1時間半以上の通勤を強いられても。水辺はもはや僕の身体記憶の一部になっている。

それにしても、思想としての整体が欲望(特に性欲)を上手に解放することを重視しているせいなのか、整体の本にはセックスの話題が多い気がする。田口ランディ寺門琢己『からだのひみつ』(新潮文庫)*1もそうだったし。

整体的生活術 (ちくま文庫)

整体的生活術 (ちくま文庫)

評価:★★★☆☆