乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

リチャード・セネット『それでも新資本主義についていくか』

買ってから5年半も本棚で眠っていた。森岡さんの新著を読んで、この本のことを思い出し、遅まきながら読むことにした。原書は『人間性の腐食:新資本主義における労働の個人的帰結(The Corrosion of Character: The Personal Consequence of Work in the New Capitalism)』というタイトルで1998年に刊行された。英エコノミスト誌は本書を1998年のベストブックに選んだらしいが、その名誉に値する実に読みごたえのある一冊だ。*1

著者の経歴や本書の概要については、非常にすぐれた「訳者あとがき」*2があるので、それを参照してもらうことにしよう。著者の言わんとしていることは実にシンプルだ。効率とフレキシビリティを最重視する新資本主義、アメリカ型経営モデルは、労働者を常にリスクにさらし、「時間」の積み重ねの中でしか紡げない人生の「物語」を彼らから奪うことで、彼らの「人間性」を「腐食」させつつある、と警告しているのだ。つまりは原題そのまま。著者は、抽象論にとどまることを避け、彼がインタビューした多数のニューエコノミー・ワーカーのパーソナル・ヒストリーを紹介している。本書が明晰かつ説得的なのは、そうした具体的な例証による部分が大きいと思う。

新資本主義は見事なまでに労働者の精神を支配下に収めている。それは洗脳と言ってもよいほどだ。理不尽なリストラに対してもそれを自己責任として従順に受けとめる(あるいは自己暗示をかける)ITコンサルタントのリコはその典型例だ。

引っ越しの多くは自ら望んだものではなかったが、それを振り返るときは彼は決して受身の言い方はしなかった。たとえば、「リストラされた」という決まり文句を嫌い、ミズーリのオフィスパークでその憂き目に遭ったときのことを、「危機に直面し、意思を固めた」と言った。・・・。
私はリコにたずねた。「ミズーリでリストラされたとき、なぜ抗議しなかったの?なぜ抵抗しなかった?」
「もちろん怒りましたよ。けれど怒ってどうなるんです。企業が経営をスリム化するのは悪いことではない。結末がどうあれ、ぼくはそれに応じざるを得なかった。・・・。」
つまり彼にできることはなかった。それでも彼は、自分ではコントロールできないこの事態に責任を感じ、自分が負うべき重荷として責任を引き受けているのである。(pp.23-4)

しかしリコは「献身」「自己犠牲」の価値を自分の子どもに伝えられないことに大きな疑問を感じてもいる。彼の抱え込んだこうしたジレンマが深く静かに彼の人間性を蝕んでいくのだ。

会社にも管理者にもリストラの責任はない。新資本主義においては支配・管理する者はいないとされる。上司とはコーチ、ファシリテーターなのだ。労働者の味方、パートナーなのだ。こうした虚構に著者は怒りを隠さない。

今日のマネジメント手法は・・・「権威主義的」側面を敬遠するが、そのプロセスで、管理者は自らの行為に責任を持つことからも逃げようとする。ATTのある管理者は、人員削減の嵐が吹きすさぶなか、「われわれはみな多かれ少なかれ外注労働者だと認識する必要がある。全員が時間と場所の犠牲者なのだ」と言った。責任は変化にあり、全員が「犠牲者」であるなら、だれにも結果責任がなくなり、権威というものは喪失する。・・・。
・・・われわれはみな時間と場所の犠牲者であると言った先の管理者は、この本に出てくる人物のなかで、おそらく最もずるい人であろう。彼は結果責任を負わずに力を振るう技法をマスターした人であり、仕事上の災難が起きると、それを彼のために働いていた仲間の「犠牲者」に背負わせることによって、自分の責任を棚上げにしようとする人間である。(pp.159-62)

本書は経済思想史的にも興味深い論点を含んでいる。ディドロとスミスのルーチンワーク観を比較し、反復性が人間としての尊厳を育てる(物語を生み出す)とする前者の見解を再評価した上で、ギデンズを現代のディドロとして大きな期待をこめて称讃している。日本の町工場の高度な技術力の説明原理としてもすぐれていると思う。

著者は本書を「人間どうしが互いを気遣うということに深い思慮を払わない体制は、正統性を長く保ち得ない」(p.213)という言葉で結んでいるが、新資本主義の後にいかなる新たな社会が到来するのか、そのために今我々は何をすべきなのかについては、はっきりと語っていない。ただ「現代の資本主義を後戻りできない決定的な変化へと駆り立て、組織を混乱させ非生産的にさせているのは・・・消費需要の大きな振幅」(pp.58-9)である以上、我々が消費者として供給サイドに柔軟性や選択性を要求すればするほど、それだけ労働者としては物語時間を喪失していく。著者が7年前のアメリカ経済について警告したことは、そのまま今日の日本経済への警告にもなっている気がする。

変化、多様性、効率性は必ずしも善ではない。そろそろ我々はシステムによって強制された「選択の自由」の真の意味(不自由さ)に気づくべきだ。辻信一『スロー・イズ・ビューティフル』*3が読みたくなってきた。

それでも新資本主義についていくか―アメリカ型経営と個人の衝突

それでも新資本主義についていくか―アメリカ型経営と個人の衝突

評価:★★★★☆

*1:理由はよくわからないが、amazon.co.jpには本書のレヴューが一点しか出ていない。しかも本書にきわめて厳しい評価を下している。その評価に僕は同意しない。

*2:訳文もこなれている。訳者は実によい仕事をしている。

*3:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582765017/250-3708210-2648209