乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

三島憲一『ニーチェ』

本書は、amazon.co.jpのカスタマーレビューにおいて、「新書という分量・内容的に制約がある媒体であるにもかかわらず、ニーチェ思想の基本事項のみならずその思想史的意義まできっちり押さえられており、手堅い出来となっている」とか「竹田青嗣須藤訓任西尾幹二藤田健治らのニーチェ論とはケタ違いの迫力と光芒を放ち、逆らい難き磁力を発する」といった高い評価を得ているが、僕は全面的に同意しない。「入門」書にしては抽象度の高い文章・言葉があふれており(とりわけ第7章以降)、悪い意味でドイツ的。昨今の学部学生の大半は通読できない気がする。ニーチェ哲学の「入門」書としては、藤田健治『ニーチェ』のほうが格段に上だろう。

しかし、本書をニーチェ思想の「研究」書と見なすならば、評価を一転させねばならない。通読一回目。「入門」書として読もうとしたために、読みにくさばかりが印象に残った。二回目。「ほぉ〜!」と驚嘆の声をあげてしまう叙述との遭遇が一気に増えた。やはり一読しただけで本を評価することは不可能だ。

本書はニーチェを「歪んだ理解」――とりわけナチスに迎合した権力主義・実存主義決断主義な理解――から救い出して、彼の「本来のプログラム」を19世紀ドイツという歴史的背景から理解しようと試みている。著者の主張の核心はようやく最終章(第9章)「ニーチェ以後」になって圧縮度・抽象度の高い文章で綴られているために、本書はかなり読みにくい代物になっている。

ナチスは、ヴァーグナーともどもニーチェを純粋なドイツ性の体現者としてもてはやし、ユダヤ人迫害のイデオロギーに利用したが、これほど歪んだ理解はない。ヴァーグナーは実際に反ユダヤ主義に加担したが、ニーチェユダヤ人排斥の動きを強烈に批判している。(p.141)

ニーチェがめざしていたのは〈力への意思〉による支配のための認識ではない認識、そうした支配のからくりを反省によって見破り、非暴力によって破壊し、自己を美と同一化させる認識である・・・。(p.215)

ホルクハイマー、アドルノハーバーマスらいわゆる「フランクフルト学派」も、フーコードゥルーズガタリデリダ、リオタールらいわゆる〈ポスト・モダン〉の思想家も、ニーチェの「本来のプログラム」を理解した上で、異なった形で批判的に継承しようとしている、と評されている。ただし、ハーバーマスに対しては、「ニーチェが行なった認識と美とを融合させることによる、非暴力的な解体の意義を見過ごしているようである」(p.224)とやや辛口の評価である。

個人的に興味深かったのは、ニーチェがそこはかとない影響を受けたショーペンハウアーの哲学である。その解説はかなり充実していた。

ショーペンハウアーによれば、我々の生とは自己保存のための闘いであり、存在の根本にあるのは〈生きんとする意思(der Wille zum Leben)〉である。各人は〈生きんとする意志〉に発する自分の欲望が満たされないがゆえに、悩み苦しんでいる。つまり、意思は意思であることに苦悩している。それゆえに人生とは苦悩の連続である。苦悩から救われ、生の苦痛が軽減されるためには、この生とその欲望を否定し、すべからく断念と諦念のうちに生きねばならない。もともとこの人生の欲望の対象は〈生きんとする意志〉が〈表象〉のなかで、つまり、自分勝手な想念のなかで作り出し、とらわれている夢であり、幻であり、単なる現象にすぎない。世界はまさに〈意思と表象としての〉世界である。それゆえ、仏教の涅槃の境地にはいるべく、解脱すべく努力すべきである。
・・・日常生活がとらわれている現象の世界は、真の芸術のなかに実現されている世界の根源の姿の前に崩壊する。根源の運命的意思のなかに吸い込まれるその恐怖と戦慄、そして高揚感こそ美である。自然の激烈な実相こそ美として現象し、日常生活の空しさを、虚無性を暴露し、我々を救い、かろやかに生きることを可能にしてくれる――ショーペンハウアーのこうした考え方は、文献学者としてのニーチェギリシア悲劇のなかに感じとっていたものでもあった。(pp.48-50)

その他には、フランス・モラリストニーチェに及ぼした影響(p.115, 143)、ニーチェが男色を重視していた事実(p.202)などが、僕の興味をそそった。

ゼミ生諸君へ。本は最低でも二度読むべし。

評価:★★★☆☆

ニーチェ (岩波新書)

ニーチェ (岩波新書)