斎藤孝さんの著作を「乱読ノート」でとりあげるのは、早くも本書で5冊目(斜め読みは除く)になる。*1広田照幸さんや高橋伸夫さんのように、サポーターであることを自認・公言しているわけではないので、「こんなに読んでいたのか」と自分でも意外に思う。知らず知らずのうちに手が伸びていた最大の理由は、やはりその実用性の高さだ。思い通りに運ばない授業に日々頭を悩ませている平凡な一教師である僕にとって、授業改善のためのネタの宝庫である斎藤本は、時に救世主の役割を果たしてくれる。4期ゼミ・5期ゼミで導入した「ほめほめ授業」は、斎藤さんの『子どもに伝えたい〈三つの力〉』が元ネタだ。
多作な方だから、内容が他の著作と部分的に重複してしまうのは致し方ないが、本書に関する限り、叙述そのものにはまったく「手抜き」がない。読者は本書を通じてコミュニケーションという山を一歩一歩着実に登っていくことができる。登山道はきちんと整備されている。足を挫いてしまうような障害物は見あたらない。
著者によれば、コミュニケーションとは「意味や感情をやりとりする行為」(p.2)であり、したがって、コミュニケーション力は「意味を的確につかみ、感情を理解し合う力」(p.4)である。コミュニケーション力の養成において、「論理性」(p.9)だけに着目するのは不十分である。むしろ「文脈力」(著者の造語)を重視すべきである。「自分の言った言葉と相手の言った言葉とが、つながり合う」(p.38)ことが「文脈の基本」であって、「相手の経験世界と自分の経験世界を絡み合わせ、一つの文脈を作り上げていくこと」(p.22)によって、クリエイティブな会話が引き起こされる。文脈力を高めるための具体的技法として、三色ボールペンやマッピングを利用したメモ書きが紹介されている。*2
著者は「言語的コミュニケーションは身体的コミュニケーションを基盤にしている」(p.77)と言う。身体次元のコミュニケーションをいかに活性化させるかが、授業の成否の鍵を握っているのだ。ポジショニング(座席配置)の重要性(pp.98-101)もこの点から説明がつくが、最も重要なのは教師の身体である。
教室の空気の多くは、教師の身体が決めるのであり、教師自身がまずオープンでテンションの高い身体で話し、場を暖めていかねばならない。(p.108)
著者はこの「オープンでテンションの高い身体」を「演劇的身体」(p.122)と呼ぶ。
たとえば、数十人、数百人の前でスピーチをしなければならないとする。この場合には、日常を生きている身体よりもずっとテンションの高い身体が要求される。これはもはや一つの演劇だ。(p.122)
学生時代に演劇に明け暮れて、学業成績の優れなかった僕にとって、著者のこの指摘は大きな励みになった。明晰な頭脳と引き替えに多少なりとも演劇的な身体を手に入れられたのだとすれば、教師生活におけるバランス・シートは少なくとも赤字ではない。もしかして少しばかり黒字になっているかもしれない。そう信じたい。
もう一つ、僕にとって大きな励みになったのは、著者が読書の効用を雄弁かつ簡潔に語ってくれたことだ。僕は無類の読書好きだが、読書の巨大な効用を学生に伝えるための適切な言葉を持ち合わせていなかったのだ。著者によれば、「コミュニケーションの基礎は、人間理解力である」(p.193)が、
文学は、人間理解力を鍛える最高のテキストだ。何しろ変な人間ばかりたくさん出てくる。そうした人間のさまざまな癖を知り、心理を理解していく訓練が、文学を読むことで集中的になされる。(p.193)
最後の数ページ(具体的にはpp.196-202)は、思わず涙腺が緩んでしまうようなエピソードの連発だ。「ネタばれ」は自粛しておくが、こうしたエピソードに触れることができるだけでも、本書を読む意味は十分にある。
4期ゼミ生K山さんにはぜひ本書を読んでもらいたい。英語で話している時にあなたの身体に何が起こっているのだろうか? 日本語で話している時の身体とどう違うのか? それを考えるための格好のヒントとなるだろう。卒論テーマに直結しているはずだ。
どちらの頭が優秀であるかということを競い合うのが対話の目的ではない。どちらから新しい意味が生まれたのかさえも重要ではない。大切なのは、今ここでこのメンバーで対話しているからこそ生まれた意味がある、ということだ。(pp.14-5)
学者なんて職業に就いてしまうと、こんな当たり前のことすら忘れがちになってしまう。悲しいことだ。僕はもっといろいろな人と「対話」がしたい。一度きりの人生なのだから。
- 作者: 齋藤孝
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2004/10/20
- メディア: 新書
- 購入: 14人 クリック: 277回
- この商品を含むブログ (80件) を見る
評価:★★★★☆