本書は、1971年生まれの若手批評家が、コミックやアニメに代表されるサブカルチャー=「オタク系文化」の分析を通じて、高度消費社会の文化状況を「まじめに」(p.9)論じたものである。3期生Y君の勧めで手に取った。本書の評価をめぐって、後日彼と意見交換する約束をしているのだが、すれ違いを最小限におさめるためにも、まず僕自身が本書をどう読んだのかを、このノートにまとめておくことが有益であろう。
著者が描き出そうと努めるのは、「オタク系文化」に凝縮されているポストモダン社会の特質である。「ポストモダン」とは、70年代以降の文化的世界を漠然と指す言葉(p.16, 27)であるとされるが、著者はジャン・ボードリヤールの消費社会論を批判的に継承しつつ、その世界像の本質を「シミュラークル*1が宿る表層」と「データベースが宿る深層」との「二層構造」(p.54)として捉えている。
・・・個々の企画はシミュラークルであり、その背後には、キャラクターや設定からなるデータベースがある。
ところがさらに別のレベルで見ると、そのキャラクターも、萌え要素のデータベースから引き出されたシミュラークルにすぎない。つまりここでは、シミュラークルとデータベースの二層構造がさらに二重化し、複雑なシステムが作り上げられている。・・・。
したがって、『デ・ジ・キャラット』を消費するとは、単純に作品(小さな物語)を消費することでも、その背後にある世界観(大きな物語)を消費することでも、さらには設定やキャラクター(大きな非物語)を消費することでもなく、さらにその奥にある、より広大なオタク系文化全体のデータベースを消費することへと繋がっている。筆者は以下、このような消費行動を・・・「データベース消費」と呼びたいと思う。」(pp.77-8)
このようなオタクたちの消費行動を支える心理を、著者は次のように描き出している。
…オタク系文化では、原作も二次創作もシミュラークルと見なされ、その両者のあいだに原理的な優劣はない。
むしろ作品の核は設定のデータベースにある。したがってオタクたちの感覚では、二次創作がいくら作品としての原作(シミュラークルの水準)を侵害したところで、情報としての原作(データベースの水準)のオリジナリティは守られているし、また尊重されてもいるということになる。逆に二次創作の作家たちからすれば、シミュラークルが増えることでますます原作の価値は高まってくる、くらいに考えているだろう。むろん現実には、著作権の存在がある以上、このような感覚をそのまま肯定するわけにはいかない。しかし、コミケが誕生して四半世紀が経ついま、その心理の背景を知っておくのは重要なことだ。(p.91)
学生たちがネット情報源からのパッチワークでレポートや論文を安易に作成してしまうのは困った事態だが、それを上のようなオタク的心理の一般化の一つの帰結として受け取ることも可能なのかもしれない。僕自身、文章にしろドラムにしろ、お手本を見つけてまねる、という方法で修行してきたし、ドラムのフレージングなどは二次創作でしかありえないと思っている。おそらく学生たち多くは(主観的には)一種の「二次創作」に従事しているつもりなのだろう。どこまでがリミックスという創造的な営みに相当し、どこからが剽窃・著作権侵害にあたるのか、厳格な線引きを学生たちの心にリアルに響くような言葉で教えるのは、意外に難しいように思えるし、これからますます難しくなっていくだろう。
それでは、話をもとに戻して、ポストモダンが「動物化」するとはどういうことか? 著者は、主としてアレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル論に依拠しつつ、次のように論じる。*2
・・・コジェーヴは、ヘーゲル的な歴史が終わったあと、人々には二つの生存様式しか残されていないと主張している。ひとつはアメリカ的な生活様式の追求、彼の言う「動物への回帰」であり、もうひとつは日本的なスノビズムだ。
・・・人間が人間であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。言い換えれば、自然との闘争がなければならない。
・・・消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく戦後アメリカの消費社会は、彼の用語では、人間的というよりむしろ「動物的」と呼ばれることになる。・・・。
他方で「スノビズム」とは、与えられた環境を否定する実質的理由が何もないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式である。…コジェーヴがその例に挙げているのは切腹である。切腹においては、実質的には死ぬ理由が何もないにもかかわらず、名誉や規律といった形式的な価値に基づいて自殺が行われる。これが究極のスノビズムだ。このような生き方は、否定の契機がある点で、決して「動物的」ではない。だがそれはまた、歴史時代の人間的な生き方とも異なる。というのも、スノッブたちの自然との対立(たとえば切腹時の本能との対立)は、もはやいかなる意味でも歴史を動かすことがないからである。 (pp.97-8)
人間が動物と異なり、自己意識をもち、社会関係を作ることができるのは、まさにこのような間主観的な欲望があるからにほかならない。動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする・・・。
したがってここで「動物になる」とは、そのような間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏‐満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する。(p.127)
著者によれば、「[19]14年から[19]89年までの75年間…の時代精神はシニシズムあるいはスノビズムで特徴づけられ」(p.107)る。「スターリニズム下の市民と日本のオタク」はともに「あらゆるものの価値が相対化されてしまったあと、無意味なものにあえて意味を見出し、そしていつのまにかその「あえて」から逃れられなくなる、という心理的な過程では共通している」(pp.105-6)という指摘には驚かされた。しかし「シニシズム=スノビズムの精神はすでに世界的にも日本的にも有効性を失い、いまや新しい主体形成のモデルが台頭しつつある」(p.108)。著者はその新しいモデルを「データベース的動物」と名づける。
データベース型世界の二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた二層化されている。それは、シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」とデータベースの水準における「大きな非物語への欲望」に駆動され、前者では動物化するが、後者では擬似的で形骸化した人間性を維持している。要約すればこのような人間像がここまでの観察から浮かび上がってくるものだが、筆者はここで最後に、この新たな人間を「データベース的動物」と名づけておきたいと思う。(p.140)
以上が本書の概要である。断じてキワモノではなく、まじめですぐれた論考であるが、それは読んだからこそ言えることで、3期生Y村君に本書を紹介された時、一瞬躊躇してしまう自分が確かに存在していた。理由はもちろん本書の主題が「オタク系文化」だからである。「90年代のオタク系文化を特徴づける「キャラ萌え」」(p.75)に対する生理的な違和感・拒絶反応が僕には確かにあった。その違和感の源を自分史的に探ってみたところ、どうやらそれは「超時空要塞マクロス」(1982年10月〜1983年6月)にあるようだ。
子ども時代の僕は、「宇宙戦艦ヤマト」の壮大な物語世界の虜となったし、「ガンダム」には難解さを感じながらも何とかついていこうとした。*3しかし「マクロス」から完全についてゆけなくなった。これはかなり明確な記憶として残っている。あくまで物語を追いかけていた(そういう楽しみ方しか知らなかった)僕を置き去りにして、少なくない友人たちが物語そっちのけでリン・ミンメイのキャラクター(艦内の人気歌手)それ自体に対して、今風に言えば「萌え」始めたのだ。14歳という微妙な年齢だったせいもあるだろうが、その時を境にして僕はアニメから距離を置くようになり、その反作用なのか、壮大な物語世界を音で紡ごうとする70年代ブリティッシュ・プログレの猛烈なファンとなっていった。*4プログレへの熱い思いはまったく衰えていないから、僕はいまだに「大きな物語」を欲してやまない人間なのだと思う。*5だとすれば、ゼミ生の「動物化」が顕著となった場合、正面衝突はどうしても避けられず、指導教員として苦しい選択を迫られることになるだろう。その可能性は決して低くないから、今から何らかの心の準備が必要だろう。*6
著者は「マクロス」に言及していないが、以下の一節を読むかぎり、「マクロス」は「ガンダム」から「エヴァンゲリオン」*7への過渡期的作品として位置づけられるように思われる。
90年代には、『新世紀エヴァンゲリオン』が『ガンダム』と頻繁に比較されてきた。というのも、この両者とも、近未来の戦闘に巻き込まれる少年を主人公としたSFアニメであり、主人公と近い世代から支持を得て社会的な話題となった作品だからである。しかし実際には、この両者は、物語に対するまったく異なったタイプの態度に支えられ消費された作品だと言うことができる。
…『ガンダム』のファンの多くは、ひとつのガンダム世界を精査し充実させることに欲望を向けている。つまりそこでは、架空の大きな物語への情熱がいまだ維持されている。しかし、90年代半ばに現れた『エヴァンゲリオン』のファンたち、とりわけ若い世代(第二世代)は、ブームの絶頂期でさえ、エヴァンゲリオン世界の全体にはあまり関心を向けなかったように思われる。むしろ彼らは最初から、二次創作的な過剰な読み込みやキャラ萌えの対象として、キャラクターのデザインや設定にばかり関心を集中させていた。
つまりそこでは、ガンダム世界のような大きな物語=虚構は、もはや幻想としても欲望されていなかった。『ガンダム』のファンは「宇宙世紀」の年表の整合性やメカニックのリアリティに異常に固執することで知られている。それに対して、『エヴァンゲリオン』のファンの多くは、主人公の設定に感情移入したり、ヒロインのエロティックなイラストを描いたり、巨大ロボットのフィギュアを作ったりすることだけのために細々とした設定を必要としていたのであり、そのかぎりでパラノイアックな関心は示すが、それ以上に作品世界に没入することは少なかったのである。(pp.59-60)
本書については他にもまだまだ書けそうな気がする。例えば、トフラーの「第三の波」とポストモダンのと関係、安部公房「赤い繭」とオタクたちの社交性との関連などは面白いテーマだと思うのだが、すでにかなりの分量を書いてしまっているし、僕自身の思考も未整理なのでやめておく。
今回ほど「乱読ノート」の執筆に苦労したことはなかった。相当に複雑で高度な議論が展開されているので、なかなか概要をまとめられなかった。何とか頑張ってここまでまとめてみたが、それでもまだ少し長い気がする。だが現時点ではこれ以上削れそうにない。今回は長くなってしまってすみません。ああ、しんど。
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
- 作者: 東浩紀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2001/11/20
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評価:★★★★★
*1:オリジナルでもコピーでもない中間形態。
*2:著者によれば、「コジェーヴが「スノビズム」と呼んだ世界への態度は、のち、スロヴェニア出身の精神分析学者、スラヴォイ・ジジェクによって「シニシズム」と呼ばれ、より詳しく理論化されている」(p.100)とのこと。水谷三公『英国貴族と近代』のキーワードの一つである「シニシズム」の意味がようやくつかめた気がする。
*3:ただし「ガンプラ」にはまったく手を出さなかった。主として経済的理由からだが。
*4:ピンク・フロイド『狂気』、ジェネシス『幻惑のブロードウェイ』などが典型。
*5:とはいえ、僕自身がビル・ブラッフォード風のやたらとピッチの高いチューニングのスネアの音に「萌え」ていない、と断言することはできない。メロトロンの音色やオーケストラ・ヒットは今や多くのプログレファンにとって「萌え」の対象でもあるだろう。楽曲そっちのけでメロトロンの音色だけに過剰なまでの感情を移入するプログレファンは確実に存在する。オタクたちを忌避している人ですら部分的にはオタク化しているのがポストモダン社会の特質なのだ。
*6:以上の展望を僕は独力で得たわけではない。3期生Y村君との対話が導きの糸となった。この場を借りて感謝の気持ちを表明しておきたい。
*7:残念ながら見たことはない。もともとサブカルチャーへの興味が希薄だったことに加えて、90年代半ばは大学院生として修行中で、テレビとの縁が最も薄い時期であった。