乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

市川伸一『学ぶ意欲の心理学』

教育心理学への格好の入門書。

第1章「動機づけの心理学を展望する」は心理学説史小史。第2章は精神科医和田秀樹氏との討論、第3章は教育社会学者・苅谷剛彦氏との討論が中心。これら3つの章を通じて読者は、「教育心理学とはどのような学問なのか」「心理学的に考えるとはどういうことか」「世間の人々がイメージする(俗流)心理学と学問としての心理学とはどう違うのか」について、かなり正確な見取り図を手に入れることができる。第4章(最終章)は、心理学的な考え方に沿いつつ、より具体的に、「やる気を出さなきゃいけないんだけど出てこない」という場面でのやる気の出し方をデッサンしている。

いかに学生を学習へと動機づけるかは、大学教員として日々直面している問題なので、興味を持たないわけがない。しかも、ここ数ヶ月、経済学部新カリキュラムの作成に関与していて、これまで以上にこの問題と格闘せざるをえなくなった。自分自身の現場での試行錯誤だけでは考える材料として不十分なので、本書を手に取った次第だ。

特に僕の頭を悩ませたのは、(自分の勤務先のような)私立文系学部における数学教育のあり方についてだ。「数字は見るだけでもイヤ!」という学生をどうやって数学の学びへと導けばよいのか? 教える内容を厳選し、基礎的な事項からじっくり丁寧に教えれば、それで学ぶ意欲は高まるのか? 何かが足りない気がして仕方がなかった。もしかして我々教員は「学習の意味」に関して根本的な事実誤認をしているのではないか?

ある程度の年齢に達した学習者に対しては、僕はかなり以前から、著者の主張するように(pp.218-221)、「基礎から積み上げる学び」よりも「基礎に降りていく学び」のほうが効果的だと考えてきた。山田真哉『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』*1は後者の方法を採用したからこそ、会計学の本にもかかわらずベストセラーになったように思えるのだ。

目的や動機の多重性にもっと気を配るべきだろう。「多重の動機に支えられていると、ある動機が弱くなったときでも、他の動機によって持続できる」(p.211)からだ。

例えば、「何を学ぶか」よりも「誰とどう学ぶか」のほうが主たる学習動機である学生もいるわけで、彼らに対しては、「教師=教える人、学生=教えられる人」という関係にとらわれずに、学生間に教え合いが頻繁に起こるような環境--「刺激し合い、啓発し合う場」(pp.230-5)--を作ることが大切になるはずだ。教科内容をいくらいじってもほとんど効果は期待できないだろうから。

また、実用志向が大きな動機である学生は年々増加しているように思われる。そういった学生に対しては、習ったことが「役に立つ」(pp.216-8)場面を頻繁かつ具体的に設定することが大切だ。すごく狭い意味での実用志向に陥ってしまうと、大学の専門学校化を促進することになるから、それを嫌悪する教員の気持ちもわからなくもないけど、だからと言って実用志向を軽視しすぎるのもいけない。数学学習によって涵養される論理的な思考力がどういう場面でどのように役に立つのかを、具体的に示す必要がある。「就職・資格試験に役立つ」だけではアピールが弱い。まさに教員の力量が問われるところだ。

ふと疑問が浮かぶ。経済学におけるインセンティブと心理学におけるインセンティブはどこが同じでどこが違うのだろうか? 長期計画で探求するには値する面白いテーマだ。僕は決して経済学から背を向けているわけではない。経済学という学問の特質を根本から問い直してみたいのだ。そのためには隣接諸学の知見を動員しなければならない。学べば学ぶほど、学ばねばならないことが増えてゆく。でも苦しいとは思わない。自分の知的世界が広がっていくことは本当に楽しい。著者の学習動機の分類に従えば、僕は学習自体を楽しんでいる典型的な「充実志向」(pp.46-50)の人間であるようだ。

最後に、本書でいちばん印象に残った叙述を紹介しておく。自戒もこめて。

・・・僕がとにかく一番不満で、本当にもっと言っておけば良かったって後悔しているのは、「これからの時代は、知識を獲得することよりも自分の頭で考えることが大切だ」ということがしきりに出された時です。「これからは、知識はコンピュータの中に入っているんだからいいではないか。人間は考えることがむしろ主要な役割になってくる」。
認知心理学から見たら、そんな変な話はないわけですよ。人間は知識をもとにして人の話を理解したり、新しいことを考えたりする。これは認知心理学者だったらまずそう言うはずですなのに、その頃ああいう言説が完全にまかり通ってしまった。そこから知識軽視が始まって。「教え込みはよくない」が始まって、自分で考えろと言われる。そうすると、もう小学校ではとんでもない授業になるわけですね。単元の最初から、ほとんど予備知識もないまま、「さあ、皆さん、考えましょう」と。そうすると、とにかく共通の知識なしにただ考えを述べ合うだけの授業になって、力はほとんどつかない。(p.187)

学ぶ意欲の心理学 (PHP新書)

学ぶ意欲の心理学 (PHP新書)

評価:★★★★☆