乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』

僕が担当している学部ゼミでは、ここ数年、「脱常識の社会経済学――あたりまえを問いなおす――」をテーマに掲げてゼミ生を募集している。ゼミの募集要項には以下のように記してある。

「なぜ勉強しなければならないのか? 大学で何を学ぶべきなのか? 何のために働くのか? 自分らしい仕事って何だろうか? そもそも「自分らしさ」って何だろうか? 本演習では、このような日常の素朴な疑問や悩みを出発点に、自分と社会をめぐる「あたりまえ」を問いなおしていきます。アプローチは非経済学(社会学・心理学・哲学・歴史学等)的でもかまいませんが、どんなテーマであれ、強く深く徹底的に考え抜くことが要求されます」と。

ゼミ生自身の主体的な問題提起がゼミ運営の根幹を支えているわけだが、毎年必ずと言ってよいほど、「恋愛をテーマにゼミをやりたい」という声があがる。当然のことだと思う。二十歳前後の者にとって恋愛が人生の枢要な部分を占めていることには、誰もが肯首するはずだ。「日常の素朴な疑問や悩み」に恋愛がまったく絡んでこないほうがおかしいくらいだ。

ただ、恋愛というテーマは自分がとらわれている「あたりまえ」を自覚しづらく、その意味で非常に議論しづらいテーマなのだ(「美」「笑い」といったテーマも同質の困難を抱えている)。少し前に7期ゼミでこのテーマをとりあげたが、結果から言えば、ゼミ生たちは「あたりまえ」を「問いなおす」ことに十分に成功しなかったように思う。恋愛によって心の穴(さびしさ)を埋めたいという願望が切実すぎるために(テーマは「恋愛で心の穴は埋まるのか?」だった)、「恋愛結婚の歴史性」といった話をすると、「夢を壊さないで」とばかりに生理的な嫌悪感を覚えて拒絶してしまうみたいだ。まず「ロマンティック・ラブ」ありきなので、冷静沈着な議論を行うことはたいへん難しい。

本書のような(ハウツーものではない本格的な)恋愛論を読んでいるゼミ生が一人でもいてくれたら、議論はもう少し違った方向に展開して豊穣なものになっていたかもしれない。本書はのっけから私たちの「あたりまえ」に根底から揺さぶりをかけてくれる。

愛は技術だろうか。技術だとしたら、知識と努力が必要だ。それとも、愛は一つの快感であり、それを経験するかどうかは運の問題で、運がよければそこに「落ちる」ようなものだろうか。この小さな本は、愛は技術であるという前者の前提のうえにたっている。しかし、今日の人びとの大半は、後者のほうを信じているにちがいない。
・・・愛について学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない。
・・・まず第一に、たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということなのだ。(pp.12-3)

さすがにゼミ生たちは、愛を「運がよければそこに「落ちる」ようなもの」と単純には考えなかった。努力することの大切さは自覚できていた。しかし、その努力はあくまで「愛されるための努力」としてしか語られなかったように思われた。「愛するための努力」の必要性には目が向けられなかったように感じられた。

フロムは「愛は技術である」と断言する。そして、本当の愛がどこまでも能動的な活動であることを強調する。人は、大工仕事や音楽や医学を学ぶ時のように、理論学習と実践の場での修練を積み重ねることによって、愛する技術を身につけることができる、と説く。要するに、愛する技術とは人生を能動的に(≒自由に)生きるための技術なのだ。

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう
・・・商人的な性格の人はよろこんで与える。ただしそれは見返りがあるときだけである。彼にとって、与えても見返りがないというのは騙されるということである。
・・・生産的な性格の人にとっては、与えることはまったくちがった意味をもつ。与えることは、自分のもてる力のもっとも高度な表現なのである。・・・与えることはもらうより喜ばしい。それは剥ぎ取られるからではなく、与えるという好意が自分の生命力の表現だからである。(pp.42-4)

「一方的に相手に求めるだけではなく、自分から与えることも考えないとダメ。恋愛はギブ・アンド・テイクが基本」といった考え方も、フロムの説明に従うならば、商品交換の原理が投影された近代特有の歴史的構築物ということになる。あなたは、掘り出し物の商品を探し求める時のように、自分が愛することのできる対象を追い求めてしまっていないか? 果たしてあなたは与えるべきものを持っているか? それができるだけの成熟した人間であるのか? フロムはこのような厳しい問いを読み手に突きつけているのだ。

本書は人生を豊かに感じさせてくれる珠玉の言葉の宝庫である。何度も繰り返し読んで味わいたい。そのたびに勇気づけられるはずだ。ただ、河合隼雄『コンプレックス』を読んだ時にも同じことを感じたが、本書は読み手の年齢と経験を選んでしまう側面もある。二十歳そこそこの僕が本書を読んで今と同じだけの感動を引き出せたか、はなはだ疑わしい。以下、とりわけ印象に残った言葉を紹介しておく。

もしある女性が花を好きだといっても、彼女が花に水をやることを忘れるのを見てしまったら、私たちは花にたいする彼女の「愛」を信じることはできないだろう。愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。(p.49)

愛の本質は、何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。愛と労働は分かちがたいものである。人は、何かのために働いたらその何かを愛し、また、愛するもののために働くのである。(p.50)

ほとんどの人は、愛を成り立たせるのは対象であって能力ではないと思いこんでいる。・・・愛が活動であり、魂の力であることを理解していないために、正しい対象を見つけさえすれば、後はひとりでにうまくゆくと信じているのだ。
この態度はちょうど、絵を描きたいと思っているくせに、絵を描く技術を習おうともせず、正しい対象が見つかるまで待っていればいいのだ、ひとたび見つかればみごとに描いてやる、と言い張るようなものだ。(pp.76-7)

愛するという技術・・・に熟達したいと思ったら、まず、生活のあらゆる場面において規律と集中力の習練を積まねばならない
・・・現代では、集中力を身につけることは規律よりもはるかにむずかしい。・・・実際、集中できるということは、一人きりでいられるということであり、一人でいられるようになるということは、愛することができるようになるための一つの必須条件である。・・・逆説的ではあるが、一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。(pp.165-7)

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的にゆだねることである。(p.190)

素晴らしい訳文。出色のできばえだと思う。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

評価:★★★★★