乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

河合隼雄『コンプレックス』

本書は昨年7月19日に79歳で惜しまれつつこの世を去られた臨床心理学の権威・河合隼雄さんが40代前半にお書きになった不朽の名著である。公刊以来35年以上の歳月が経過しているが、いまだに広く読み継がれている。

「コンプレックス」という言葉は今では日常語となっているが、その場合、「劣等感」とほぼ同義で用いられているのではないだろうか。しかし、もともとこの言葉は、ユング心理学のキー・タームであり、単なる「劣等感」と同義でない(p.60)。それは、無意識内に存在して通常の意識活動を妨害してしまうような、何らかの感情によって色づけられた心的内容の複合体のことである(pp.13-4)。自分の劣等性をはっきりと認識できており、何の問題も伴わない場合、それはコンプレックスでない。

私たちの主体性は私たちが信じているよりずっと弱いものである。私たちの中にはもう一人の私が存在している。私たちが自分の意思とは異なる行動をとってしまうような場合、私たちの意志による制御を排してそのような行動をとらせた「もう一人の私」こそが「コンプレックス」である。私たちが「何となくあの人が好かない」といらだちを覚えるような場合、それは「コンプレックス」が背後から私たちの主体を揺らしているのである。

コンプレックスの存在が自我にまったく意識されておらず、それにもかかわらず、コンプレックスのほうは無意識下でどんどん強力になっていく場合がある。そして、ある時突然にコンプレックスが一個の人格として現われ、自我の座を奪ってしまうような劇的なことが生じる。これが二重人格の現象である。二重人格の現象ほど、コンプレックスの脅威を生き生きと示すものはない。「もう一人の私」が自我を押しのけて現実の世界に出現してくる(pp.37-8)。ここまでくれば立派な病理現象であるが、その病根はすべての健常者の心にも宿っている。

本書はコンプレックスの否定面だけでなく積極面も描いている。コンプレックスはないにこしたことはないという考えは正しくない(p.54)。ユングは、コンプレックスの表出のマイナス面も認めたうえで、コンプレックスとの「対決」によって、私たちはより高次の新しい自分へと成長することができる、と考えている。もちろん、成長への道のりは平坦ではない。コンプレックスは感情の「爆発」によって克服される場合が多い。それは関係者をしばしば絶望のどん底に陥れる。本書に紹介されている高校2年生男子の家出の例(pp.80-1)、中学生男子の学校恐怖症の例(pp.108-14)などは、その「爆発」のすさまじさをまざまざと見せつけてくれる。

本書は超一級の教養書である。この本に書かれている内容を教養として知っていれば、正体不明の「むなしさ」「いらいら」に襲われても、安易な自己否定や他者への嫌悪に至ることを防いでくれるはずだ。人生はそれだけ豊かなものになるはずだ。

実はこの本、16年ぶりの再読である。初読は1992年5月だと記録されている。まだ僕が学部の学生だった時代にゼミのテキストとして読んだ。当時はこの豊かな内容の1%も理解できていなかったように思う。文章それ自体は決して難しくないのだが、人間関係の経験が質的にも量的にもあまりに乏しかったせいか、本書が紹介している様々な人間関係のあり方および臨床例が、当時の僕の心になかなか響かなかったようだ。この年齢になって読み返すと、生きることの偉大さと切なさがありありと描き出されていることに大きな感動を覚える。齢を重ねてみないことには触れられない真実があることを痛感させられた。

コンプレックス (岩波新書)

コンプレックス (岩波新書)

評価:★★★★★