乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

斎藤美奈子『誤読日記』

週刊朝日』『アエラ』に連載されていたコラム(読書欄)を単行本としてまとめたものである。書評の対象として170冊あまりの新刊書が選ばれている。

いまここにいたり、取り上げた170冊あまりの本のリストを眺めて、われながら感心した。もちろん、ここに出てくる本がどれも素晴らしいという意味ではない。選書の方向がいかにもたこにもミーハーで、それこそ新聞の書評欄で見るような「ちゃんとした選書」とは、あまりにかけ離れていたからである。
芸能レポーターよろしくタレント本を追いかけ、なぜ売れているのかわからないベストセラーを相手に七転八倒し、自己啓発書や実用書にまで無節操に手を広げ、文芸書を取り上げるときでも、メジャーな文学賞の受賞作だったり、テレビドラマの原作だったり、この本の性格をひと言でいえば、それは「本のワイドショー」であろう。(pp.388-9)

「ワイドショー」とは言い得て妙である。実際、斎藤さんの書評は、その抜群の切れ味ゆえに、エンターテイメントの域に達してしまっている。僕は本書を読みながら、何度も声を出して笑い転げてしまった。

例えば、目下テレビや女性誌でひっぱりだこの江原啓之『スピリチュアル夢百科』については、こんな感じである。

みんな勘違いしてるけど、心霊業とは、ある種のサービス業なのである。その点、江原さんが優れたサービスマン=ビジネスマンであるのはわかった。現代人にマッチした適度な理屈っぽさと、宗教色を排した押しつけがましくない態度。*1
特に注目すべきはカタカナづかいの技ね。スピリチュアルワールド、ガーディアンスピリット、スピリチュアルトリップ、スピリチュアルミーティング……。霊媒師でも霊能者でもなく「スピリチュアル・カウンセラー」を名乗り、お祓いやお守りも、氏にかかれば「たましいのサプリメント」になる。心霊業もリニューアルの時代。ポジションとしてはポスト宜保愛子。ただし、旧弊な「お祓い」ではもう客を呼べない。「心のエステ」感覚ですね。(pp.107-9)

僕がかつて「乱読ノート」でとりあげた小嵐九八郎『妻をみなおす』については、「目もあてられない」「体調の悪い人は吐きます」とバッサリだし、正高信男『ケータイを持ったサル』についても、「乱暴な比較論」「現代の奇書」であると。

僕は書評を読むのも書くのも大好きだ。読まない生活、書かない生活など考えられない。だからこそ「乱読ノート」は何年も続いている。しかし、「好き」が「巧い」に直結しないのが辛いところだ。僕は、書き手の意図をできるかぎり尊重して(だから要約に十分なスペースを割く)、そこに自分の「世界観」「思い入れ」をぶつけるという「ガチンコ」方式でしか、今のところ書評が綴れない。だからどうしても見せ場の乏しい平板な文章になってしまう。

そんな僕の文章と比べると、斎藤さんの文章はどこまでも自由で奔放だ。かなりの皮肉や毒気を含んでいるにもかかわらず、決して読者に不快感を与えない。僕は職業柄、断定調で文章を綴ることに慎重(臆病)になりがちなので、むしろ「よくぞここまで言い切ってくれた!」と拍手喝采してしまうのだ。それが僕の見解を全面否定する内容であっても、痛快なのだ。「こんな読み方があったのか!」と驚嘆し、硬直しかかっている脳みそがマッサージされている気分になる。彼女の文章を読むのは本当に楽しい。

ただ、一つ気になるのは、(おそらく彼女自身は自覚的にそうしているのだろうが、)斎藤さんの文章に「世界観」や「思い入れ」が希薄であることだ。思考が絶えず立ち返ってゆく価値の重心のようなものが見えない。「こういう読み方をしたら面白いでしょう?」といった感じで、特定の価値に積極的にコミットしない書き方になっている。これでは読み手は突っ込みたくても突っ込みようがない。突っ込んだ途端に、「あれは誤読ですから」(p.387)と逃げられてしまう。好き放題書いているように見えるけれども、様々な読者の反応を綿密に計算しているからこそ、「非常口」を用意できる。そういう計算なしでは、宗教問題などについてあれだけ自由奔放に書くのは不可能だろう。ある意味、ずるいのだけれど、むしろ巧妙と言うべきだろう。『物は言いよう』を読んだ時にも感じたが、本当に頭のいい人だ。斎藤さんと議論する機会に恵まれた場合、直球しか投げられない僕はきっと100戦100敗してしまうだろう。

誤読日記

誤読日記

評価:★★★★☆

*1:この視点は面白い。山田ズーニーさんの著作などにも当てはまる気がする。