乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

橋本治『ちゃんと話すための敬語の本』

著者自身が「まえがき」で断っているように、本書は「正しい敬語の使いかたを教える本」ではない。「いったい敬語ってなんなんだ?」ということを考えるための本である。

まず、問題の立て方が見事だ。本書が想定している読者は高校生以下である。かなり高い確率で敬語に苦手意識を持っている。苦手なものはたいてい嫌いなもの。嫌いなものはこの世から消えてなくなって欲しい。だから、彼らの多くは「そもそも敬語など必要なのか? なくても困らないではないか? だったらこんなに面倒くさいものは廃止してしまったらどうだろうか?」といった素朴な(しかし本質的な)疑問を抱いているはずだ。このような読者に対して「正しい敬語」のルールを解説しても、隔靴掻痒以外の何ものでもない。著者は読者が本当に求めているものをきちんと理解している。

本書によれば、敬語とは、自分と他人の間に距離があることを認める言葉であり、現代で敬語が必要なのは、自分と他人との間にある距離をちゃんと確認して、人間関係をきちんと動かすためである。敬語を上手に――「正しく」ではない!――使うことで、他人(親しい人、親しくない人、親しくなりたい人、親しくなりたくない人etc.)との距離をうまく保つことができる。そのためには敬語が前提とする人間関係を視覚的にイメージできることが大切だ。

昔(江戸時代まで)は、身分の上下関係(ランクの差)が存在していたために、距離とは文字通り(心理的ではなく物理的な)距離を意味した。偉い人は高い所にいて、偉くない人は低い所にいるのが常識であった(『遠山の金さん』のお白州のシーンを想起せよ)。場所が違えば、当然のことながら、目の位置も違ってくる。

「えらい人」は、高い所にいます。そうすると、目のある位置が、他の人より「上」になります。だから、「目上」なのです。その反対に、「えらくない人」は低い所にいるので、「えらい人」より目の位置が「下」になります。だから「目下」と言うのです。(p.46)

たとえばあなたは「昔の人」です。えらい人のお屋敷に勤めています。そこのお殿様から、別の屋敷のお殿様に、手紙を持って行く用を言いつけられます。…。
相手のお屋敷に行きます。…。
殿様に用事のあるあなたは、まず、庭に座らなければなりません。殿様があなたに気づこうと気がつかなかろうと、あなたはまず、「申し上げます」と言わなければなりません。
「申す」は、「言う」の謙譲語*1です。あなたは、殿様よりも何ランクも低いのですから、そのことをはっきりさせるために、「申す」という謙譲語を使わなければなりません。「申す」の後には、「上げます」がつきます。…そこになぜ「上げ」がつくのかもわかるでしょう。あなたは、低い庭の上で、殿様は高い部屋の中です。下にいるあなたは、言葉を上に上げなければならないのです。だから、「申す」で「上げる」なんです。
もちろん、それを言う時のあなたは、殿様の顔を見てはいけません。下を向いて、庭の土を見ているのです。なぜかと言うと、殿様が「目上の人」で、あなたが殿様よりもずっと「目下」だからです。場所の上下を決めるのに「目の位置」を基準にするくらいの時代では、目下の人間が目上の人間の目を直接に見るなどということは、特別に許されなければ、まずありえないのです。(pp.49-50)

敬語は国家が定めた身分制度と表裏一体の関係にあった。しかし、これはあくまで昔の話。ランクづけのなくなってしまった今の時代に敬語を厳密に正しく使おうとすると、むしろ場違いで滑稽な印象すら与えてしまう。

「正しく使いすぎると時代劇になる。だから、いいかげんにテキトーに使え」というのが、現代の敬語なんです。「いいかげんであるほうが正しい」というのはとてもへんですが、でも現代の敬語はそういうもので、だからこそ、敬語はとてもむずかしいのです。(p.39)

言葉が時代とともに変わるものである以上、敬語も時代とともに変わる。ランクづけのなくなってしまった今日、敬語でいちばん必要なのは、「ランクの差」と結びついた「尊敬語」「謙譲語」ではなく、「ランクの差」とは関係ない(「です」とか「ます」の)「丁寧の敬語」である。

…見知らぬ人からいきなりタメ口で話しかけられたら、「なんですか?」と答えなければなりません。「です」という丁寧の敬語は、「あなたと私との間には距離がある」ということを、相手に伝えているのです。(p.120)

人と人との間には、いろんな距離があります。近くても「距離」で、遠くても「距離」です。だから、「距離があるからいやだ」と考えるのではなくて、「その距離をどうするのか?」と考えるのです。
いちばん近い人には、「距離」がなくてもいいような「ひとりごとの言葉」――タメ口でもだいじょうぶです。「ちょっと距離があるな」と思ったら、「丁寧の敬語」です。「ちょっと」どころではなくて、「すごく距離があるな」と思って、それが「丁寧の敬語では役にたたないくらい遠い」と思ってしまったら、「尊敬の敬語」や「謙譲の敬語」を使います。現代での敬語は、そのような使い方をするものなのです。
世の中にはいろいろな人がいて、その人たちとの間には、それぞれ「いろんな距離」があるのです。だから、そういう世の中でちゃんと生きていって、自分の考えをつたえるためには、その人たちとちゃんと話ができるような、「敬語」というものを知っておく必要があるのです。(pp.122-3)

著者の専門が国文学であるためか、新潮学芸賞を受賞した『宗教なんかこわくない!』やベストセラーになった『上司は思いつきでものを言う』などと比べても、本書の切れ味の鋭さは群を抜いている。まさに「匠の技」なのだ。ジュニア向け新書ということで、文章の「くねくね」度はおとなしめだが、それがかえって文章にほどよいスピード感を与えている。良書であり快著である。自信をもってお薦めしたい。

最後に素朴な疑問を。果たして本書のようなジュニア系新書の実際の主たる読者はジュニア(10代)なのだろうか? 大人が過半数と言わないまでも相当に高い割合を占めているような気がして仕方ないのだ。村上龍13歳のハローワーク』についても、「読んでいたのは実は大人だったとの説もある」*2のだから。

ちゃんと話すための敬語の本 (ちくまプリマー新書)

ちゃんと話すための敬語の本 (ちくまプリマー新書)

評価:★★★★★

*1:「謙譲語」は「卑屈語」と、「尊敬語」は「ヨイショ語」と言い換えよ。その本質がつかみやすくなる。p.74を見よ。

*2:斎藤美奈子『誤読日記』朝日新聞社, p.330. 次回の「乱読ノート」でとりあげる予定。