現代はグローバリゼーションの時代だとしばしば言われるが、いざこの語の意味の説明を求められれば、誰しも戸惑うのではないだろうか。実際、この語の意味するところはあまりに多様かつ錯綜しており、何らかの共通了解が論者の間に存するわけではない。本書はこの時代のキーワードを読み解くための格好の簡便なガイドである。
本書の概要を以下に示そう。
グローバリゼーションとは、一般的には、国境を越えるヒト・モノ・カネそして情報や技術の動きの拡大を意味し、そうした越境的な「状況」を指す語と理解されてきた。しかし、他方で、それを近代における不可避的な「過程」ととらえる立場もあれば、そうした状況を推し進める特定の「政治的企図・実践」と考える立場もある。グローバリゼーションを課題とすることは、このようにきわめて多面的な問題を扱うことになるわけだが、大切なのは「何」を扱うかではなく「いかに」扱うかである。グローバルな課題に対してローカルな課題があるわけではない。グローバリゼーション研究に求められているのは、グローバルに考える――ローカルな課題であってもそれを不可避的にグローバルな課題に連結するものとしてとらえる――ことである。
具体的に言えば、グローバリゼーション研究には二つの大きな柱がある。一つは、世界秩序の経済的な支配様式(民営化・規制緩和、とりわけ教育や衛生といった再生産領域の市場化)と文化的なそれ(ヴァーチャル化・デジタル化・マクドナルド化)との対話を推し進めることであり、もう一つは、ナショナルな思考様式に縛られてきた――「国際」と名のつく分野も例外ではない――これまでの人文社会科学のあり方を反省し、世界を単位に新しい知の枠組みを構築することである。
グローバリゼーションの進展(企業活動のグローバル化)は我々の生活スタイルを根底から揺さぶりつつある。形式的な平等と実質的な差異化の急速な浸透(p.39, 181)。女性・移民の参入などによる労働市場の流動化(フレキシビリティの回復)。労働市場からの排除がもたらすアイデンティティの危機。環境問題の深刻化。家族や地域社会の崩壊。ナショナルあるいはエスニックな対立の先鋭化。等々。しかし、ナショナリズムとグローバリズムとがメダルの表と裏の関係(共犯関係)にある(p.34, 61, 71, 80)以上、反グローバリズムの足場をナショナリズムに求めることはできない。ナショナリズムに陥ることなく、グローバル資本への抵抗の場をどのように保証していけるのか(p.57, 91, 185)がグローバリゼーションの最大の課題だと著者は繰り返し力説している。
本書の読後感は見田宗介『現代社会の理論』*1を読んだ時と似ている。視界が一気に開けていくかのような爽快感を覚える。しかし、見田が「生存の美学」を楽観的に語っているのに対して、伊豫谷は新しい貧困としての「排除」(p.157)を告発している。果たしてどちらが現代社会の真実なのだろうか? 僕としては伊豫谷に軍配を挙げたい気がするのだが。ネグリとハートの帝国論の紹介(p.138)もヨーロッパ思想史研究者として嬉しい。この分野をフォローできるだけの余裕はさすがにないものだから。良書である。
- 作者: 伊豫谷登士翁
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2002/08/22
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評価:★★★★☆