辻井喬(堤清二)は、日野啓三と並んで、学生時代に最も惚れこんだ作家で、かつては新作が出るたびに貪るように読んでいた。僕にとって、日野作品のいちばんの魅力が、(無意識をも含めた広い意味での)意識の流れを言語化しようとする真摯で執拗な営みにあったとすれば、辻井作品のいちばんの魅力は、自分の体内に潜む矛盾を赤裸々に暴きたてようとする半ば自虐的な営みにあった、と言えるだろう。*1
本書の帯の惹句にはこう記されてある。
「実業家堤清二」のしがらみを切り捨てて辻井喬が本音で語る
誰がグローバリズムとマーケティング病の汚染された国を築いたか!?
祖国再建の手がかりを探る!
かつてセゾン・グループ総帥として消費資本主義の最前線に立っていた著者を知る多く者にとって、首を傾げる惹句ではないだろうか? 彼こそグローバリズムとマーケティング病の権化ではなかったのか、という疑問が当然のように湧いてくる。セゾンのキャッチ・コピー「おいしい生活」に、日本的・伝統的な何かを感じることができただろうか? そこにあったのは、つまるところ、「人為的に差異を演出し、人並みの生活をしたいという意識を脅迫して物品購入、消費に駆り立てているやり方」(p.37)でしかなかったのでは? 実際、著者自身、「僕もマーケティング屋の一員といってもいい役割を果たしていた」(p.39)と、かつての自分を振り返っている。
辻井は常に分裂している。分裂を自覚し、引き受け、それを包み隠さずさらけ出す。そこに彼の創作の原点(と言うより、ほとんどすべて)があるように思う。さながらヤヌス神のようであり、ジキルとハイドのようでもあるが、自分の中に潜むもう一人の自分(それがかつての自分であれ、今の自分であれ)との対話が、彼の作品を常に根底から規定し支配している。言うまでもなく、最も際立った矛盾は、父・堤康次郎の血が自分の体内に流れていることを拒絶しようとする自分(文学者・元共産党員)とそれを認めようとする自分(経営者・元衆議院議長)との矛盾であっる。1991年に経営の第一線から退き、文筆活動に専念するようになってから、実業家時代の自分を見るまなざしはいっそう厳しくなっている気がする。
本書は、経済発展至上主義とグローバリズムの過誤を告発しながら、健全なナショナリズムの復興を説く。ナショナリズムそれ自体が悪いのではない。人間創造的伝統に根ざした良きナショナリズムと、軍国主義者に歪められ国粋主義になりさがった悪しき(似非)ナショナリズムとを、混同してはならない。今こそ共同体の復興が不可欠である。それは決してかつてのような個を抑圧する共同体であってはならない。個の自立を促す感性の共同体でなければならない。グローバリズムとマーケティング病がもたらした感性の衰弱、想像力の衰弱は危機的なまでに著しい。こうした主張には詩人としても活躍する著者の面目が躍如している。
憲法や教育基本法の改正に対する断固たる批判。丸山真男と司馬遼太郎に対して示す深い敬愛の情。自前の感性で歴史や社会を見つめることの大切さ(それは茨木のり子の反戦詩「わたしが一番きれいだったとき」をもとに語られる)。果たしてこの人は右なのか、左なのか? あらゆる矛盾を引き受けて紡ぎ出される言葉は、単純な二分法を許さない。
著者は学者でなく作家・詩人であるし*2、本書自体がもともと信濃毎日新聞に連載された51の随想(各3〜4ページ)をまとめたものなので、論理ではなく感性を味わうべき作品であるが、もしこの著作が堤清二の名前で書かれていたなら、果たしてどんな内容になっていただろうか? 想像するだけでも面白い。
- 作者: 辻井喬
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2007/08/24
- メディア: 単行本
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評価:★★★★☆