乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

筑紫哲也『スローライフ』

5期ゼミのテキスト。ゼミ生が自分で選んだ。著者は言わずもがなの超有名ジャーナリスト。生きることの真の意味を「スロー」という言葉に托しつつ、訪れた世界各地、日本各地で見つけた「スローライフ(ゆったりとした生)」をとらわれない自由な筆致で紹介している。

著者がスピードと効率性を最大限に追及するグローバリズムに批判的なことは間違いないが、「スローか、ファストか」という一元論(二者択一)に陥らないよう、慎重に筆を運んでいる。「緩急自在のすすめ」という副題は、著者のそうしたスタンスを象徴するものである。単一の説を絶対的真理として万人に強要するような社会は争いを生み出すし(9・11を想起せよ)、そうでなくても息苦しく、とげとげしい。スローという価値の絶対視は一種の環境ファシズムにつながりかねない。そうした懸念が著者の脳裏をかすめるのだろう。

ある同業の友人は「京都には魔物が棲んでいる」とかつて僕に語ったことがある。「時間がゆったり流れすぎて一本の論文を仕上げるのに時間(生産性)を度外視して何年も費やしてしまい、そうした生産性の低さが結果的に研究者として自立する上で大きなハンデとなってしまっている」といった意味だと僕は理解しているが、そこがまさに僕が京都を愛するゆえんでもある。「スローライフなまち」の要件7つ(p.186以下)は、京都にもかなりの部分当てはまっている気がする。著者の愛する「豆腐屋」も「銭湯」(p.72以下)も京都では――少なくとも僕の近所では――まだまだ元気である。

本書の主題からやや離れてしまうが、いちばん印象に残った一節を紹介しておきたい。

企業は利潤追求を最大の目的とした組織である。法人を名乗ってはいても、個々の人間に求められるような倫理性は持ち合わせていない。さすがに近年は「コンプライアンス」(法政遵守)や「CSR」(企業の社会的責任)が言われるようになった。が、日本語ではなく横文字や頭文字でそれを言うのが何やらうさん臭い上に、企業の社会的責任を言うのなら、最大のそれはきちんとなるだけ多く人を雇うことのはずである。リストラ(首切りと訳すのが実態である)とアウトソーシング(臨時雇用と訳すべきだろう)に励みながら、何が社会的責任かと言いたくなる。(pp.200-1)

スローライフはスローな働き方を前提としなければならないし、その実現こそが企業の社会的責任の最たるものであるはずだ。それを企業理念として掲げるばかりでなく着々と実現させている企業を僕はスローな企業と呼びたい。ファストフードとスローフードがあるように、企業にもファストなそれとスローなそれとがあるというわけだ。残念ながらスローな企業について著者はほとんど何も述べてくれていない。そこでスローな企業として最近僕が注目しているある企業を次回の「乱読ノート」では紹介したい。*1

スローライフ―緩急自在のすすめ (岩波新書)

スローライフ―緩急自在のすすめ (岩波新書)

評価:★★★☆☆

*1:「スロー」という価値観には辻信一『スロー・イズ・ビューティフル』を読んだ時からずっと惹かれていたが(http://d.hatena.ne.jp/nakazawa0801/20051016)、それを論文のネタとして利用しようとする際、ビジネス・エシックスとの結節点がなかなか見えてこなかった。本書を読み進める中でようやく少し見えてきた。つまり「スローな働き方」を保証する「スローな企業」とは具体的にどのような企業なのか、という問いが結節点になりそうな予感がしている。