乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

田村明子『知的な英語、好かれる英語』

自分のゼミ生にイギリス(エディンバラ)留学時*1の話をすると、決まったように「英語ペラペラですか?」という質問をぶつけられる。日本人の多くは、「英語を使って仕事している」などと聞くと、たちまち「英語が流暢に話せる」状態を連想してしまうようだ。しかし、少し考えればわかりそうなものだが、もし社長に「よう、元気かい?」などと流暢な英語であいさつしたりすれば、それは流暢以前の無礼にすぎない。ビジネスの現場における英語とはペラペラである前に丁寧でなければならない。当たり前のことなのに、これを実感レベルで理解できないことが、日本人の英語学習の躓きの石なのではないか。

少なくとも僕は、イギリス留学時に日本人留学生の流暢だが汚くて幼稚な英語を頻繁に耳にして、流暢に話せることへの憧れをまったく失ってしまった。相手の言っていることを概ね理解でき、相手に自分の言いたいことを概ね伝えることができ、会話を通じて尊重・尊敬しあえる関係を構築できること。これこそ僕が自分の英語に望んでいることだ。今のところ流暢さ・格好良さなどまったく必要としていない。

滞米歴25年を超えるフリーライターによる本書は、このような僕の英語に対するニーズを見事に汲み取ってくれた、素晴らしい指南書である。「知的な英語、好かれる英語」とはどのような英語なのか、また、そのような英語を話すためにはどのような心がけが必要なのかを、実体験を交えつつ、わかりやすく説いてくれている。

数日前(2009年3月24日)に僕は京都で開催された国際学会において人生で2回目となる英語での研究発表を行ったのだが、その準備にあたって、「きれいな英語に聞こえるコツ」の章(pp.72-85)をそのまま実行に移した。本番で大いに役立ったことは言うまでもない。本書にはどんなに感謝しても感謝しきれない。

本書が繰り返し説いているのは、学生(キャンパス)英語と社会人(ビジネス)英語はまったく別ものである、ということだ。

「うちの娘は留学していたので、英語だけは得意で」と自慢するご両親のお子さんが話すのは、学校で知り合ったボーイフレンドじこみの、スラングばかりが流暢な英語であったということは、ちっとも珍しくないのです。
・・・「そんな丁寧な英語、アメリカ人は誰も使っていない」と言う人は、そのような言葉遣いが必要とされる世界に入った経験がないということなのです。(pp.30-2)

この引用に日本人の英語学習者の陥りがちな罠が端的に表明されているように思われる。そのような罠に陥らないようにと、著者は繰り返し読者に注意を促している。

本書を読んで考えさせられたのは、文法と訳読中心の学校英語(いわゆる「受験英語」)の功罪についてである。「受験英語は実生活で役に立たない」と決め付けられ、オーラル中心の「実用的な」英語教育こそが望ましいものとする考え方が広まっているが、僕はこの考え方に反対である。ここには大きな誤解が潜んでいるように思う。美しくフォーマルな大人の英語(含敬語)を話そう・書こうとする際、正確な文法知識は不可欠である。これは僕自身が日々実感していることだ。「受験英語」は決して否定されるべきものではない。「受験英語」の使い方を少し工夫すればよいだけなのに。いくら流暢でも文法的に誤りだらけの英語しか話せないとなると、実生活で使用できる範囲は著しく制限されてしまうはずだ。*2

本書は異文化コミュニケーションに関するエッセイとしても秀逸である。著者の日本語の美しさに脱帽する。英語の美しさと日本語の美しさは同じコインの表と裏ということか。英語であれ日本語であれ、乱暴な言葉は他者への配慮を欠いているわけだから、乱暴な日本語しか話せない日本人の英語が品位を欠くのは当然のことか。結局、母国語の運用能力がすべての鍵を握っているということか。

偉そうなことをたくさん書いてしまったが、僕も英語学習者としてはまだまだ発展途上の段階にある。幾度となく「罠」に陥り「誤解」に引きずられた一学習者が過去の反省を踏まえて記した雑文として、割り引いて読んでいただきたい。

知的な英語、好かれる英語 (生活人新書)

知的な英語、好かれる英語 (生活人新書)

評価:★★★★★

*1:2002年4月から2003年3月まで。

*2:もっとも、このような立場に過度に固執すると、ピジン・イングリッシュなどを蔑視する立場に反論しづらくなるので、悩ましいところである。