面白かった。教育・労働・格差についてここ数年僕自身が考え続けていたこと*1のほとんどすべてを、僕自身よりも明快な言葉で代弁してくれていたのだから。読了後、便秘から解放された時のような爽快感に全身が包まれた。腑に落ちた。
よく売れた本だけあって、amazon.co.jpの読者レヴューの数も60を超えているのだが、それらの多くが本書の実証性の欠如への不満を表明している。確かに本書の議論は、子どもやニートへのインタビューに基づいているわけでなく、数値データに基づいているわけでもない。何らの検証を経ていない「仮説」が半ば一方的に展開されているような印象を読者が受けるのも否めない。しかし、それが「思いつきの垂れ流し」あるいは「勝手な議論」であるとまで言われれば、僕は本書を擁護する側に立ちたい。
著者はフランス現代思想の専門家である。著者の専門的知見が織り込まれていないわけがない。僕には構造主義の知見を援用したかなり綿密な議論であるように感じられた。著者は子どもやニートの個人的・主観的意図を超えた現代社会の構造的特質(特定の価値観を当然視させるような刷り込み)を捉えようとしている。インタビューや数値データでは捉えられないものを記述しようとしているのだから、それらに依拠していないのはある意味当然とも言える。
本書の内容を僕なりにまとめれば、おおよそ以下のようになるだろう。
近年の学力低下やニートの発生の根本には、幼少期からの市場的思考(経済合理性・等価交換原則)の浸透という事実がある。子どもたちは「労働主体」になる以前に「消費主体」としてのポジションを社会から与えられている。そのために、社会生活のあらゆる場面で経済的合理性に基づいた「賢い消費者」として思考し行動する習性を、就学前から身に付けてしまう(そうすることを制度的に強いられている)。苦役に見合ったメリットが即座に(=「無時間」的に)与えられないような取引に応じることは、「賢い消費者」として失格である。だからこそ彼らは「賢い消費者」として積極的に学習・労働を拒絶する。「自己決定し、その結果については一人で責任を取る」態度を称揚する自己決定・自己責任の美学が、そうした拒絶をイデオロギー的に下支えしている。しかし、こうした拒絶が、結果的に彼らを孤立させ、相互扶助組織から脱落させることになる。階層内部的な評価を通じてしか自信を高める道がなくなり、下層の価値観・行動様式に順応することによって、勉強・労働からの逃避にいっそう積極的に努力してしまう。このようにして「下流志向」が構造化される。
以上のような著者の考察は、徹底的に考え抜かれたものと言うより、むしろ、キャリアを積んできた思索家のみがなしうる本質の直感と言うべきものだろう。詳しい紹介は省くが、自己決定・自己責任という生き方とリスク社会との共犯関係についての分析はとりわけ秀逸である。「孤立した人間」が「自立した人間」であるかのような錯誤、「賢い消費者」という自己規定の幻想をえぐり出したことの功績は大きい。
「下流志向」の構造化という悲劇的現実は、本来ダイナミックなプロセス(ロングスパンの現象)であるはずの学びや労働が等価交換の空間(無時間)モデルによって表象されることの無理に起因するものだ。著者は大学教員としての経験から「身をもって」その無理を確信したようである。
教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育過程が終了するまで、言うことができないということにあります。
しかし、消費主体として学校に登場する子どもたちは、そもそもそのような逆説が学校を成り立たせていることを知りません。(p.46)
学びは市場原理によっては基礎づけることができない。これが教育について考えるときの基本です。・・・。
「学び」は等価交換の空間モデルによっては表象することができません。それは時間的な現象です。そして、時間的でないような「学び」は存在しません。(pp.60-2)
無知とは時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができない思考のことです。
僕が今日ずっと申し上げているのはこのことです。学びからの逃走、労働からの逃走とはおのれの無知に固着する欲望であるということです。(p.154)
学びや労働の表象に時間性を回復させなければならない。それは急務である。著者が対策の一つとして「身体性の教育」(p.228)を挙げていることは、この「乱読ノート」でもお馴染みの齋藤孝さんの議論と重なっていて、たいへん興味深い。*2
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/01/31
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