乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

清水正徳『働くことの意味』

著者は宇野派のマルクス主義哲学者。本書は西洋思想における労働観の系譜を古代から現代までたどり*1、その思想的遺産の現代的意義を明らかにしようとする。宇野派のマルクス解釈に忠実に、資本主義社会における様々な矛盾の根本原因が労働力商品化に求められ、当然のことながら、今日、働くことの意味(働きがい)が見失われてしまったことの原因もそれに求められている。

本書の眼目は第Ⅲ章「人間疎外と労働」と題するヘーゲル&マルクス論である。その内容を約説すれば、次のようになるだろう。

労働は確かに苦しいものであるかもしれない。しかし、本来の労働は、自己を対象化(外化・疎外)させるという契機を通じて、人間にその本当の姿(可能性)を教え、新しい自己へと成長するきっかけを与えるはずのものである。しかし、資本主義社会では、労働者が対象化した生産物は他人(資本家)の所有物となる。労働者は生産物の中に自己(の可能性)を確認することができなくなる。それが契機となって、労働行為それ自体が人間にとって空虚でよそよそしい(疎外された)活動へ変わってしまう。労働から喜びが引き出せなくなる代わりに、他人の不幸から喜びを引き出すような、自然な人間感情の倒錯が起こる。働く人間の相互の連帯や信頼が分断される。こうした諸問題の根本原因は、労働力の商品化という社会経済の構造の中にある。

こうした現状の打開策として、著者は労働の自主管理に強い期待を寄せているが、この点に1982年初版という時代性が如実に現れている。当時、ソ連社会主義への幻滅は始まっていたものの、ユーゴスラヴィアの自主管理への期待は健在だった。そんな時代の空気を伝えているが、今となってはただ古いだけで、ほとんど啓発されない。投下労働価値説の正しさ(支配労働価値説の過誤)を自明としている点なども、今日の経済思想史研究の水準からすれば、看過できない独断論だろう。「実践(プラクシス)」は本書のキーワードの一つなのだが、何度読み返してもその内容をうまく飲み込むことができない。少なくとも僕には自明でないし、多くの読者にとってもそうではないだろうか。

悪口ばかり書いてしまったが、ヘーゲル-マルクスの思想的継承関係については、要領よくまとめられていて、非常に勉強になった。

働くことの意味 (1982年) (岩波新書)

働くことの意味 (1982年) (岩波新書)

評価:★★☆☆☆

*1:ただし、東洋思想におけるそれにも十数ページだけ割かれている。