乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

神野直彦『「分かち合い」の経済学』

スウェーデン語の「オムソーリ」は「社会サービス」を意味するが、その原義は「悲しみの分かち合い」である。著者によれば、この「オムソーリ」という言葉を導きの糸として、日本社会をヴィジョンを描くことが本書の目的であるとのこと。

同じ著者の『地域再生の経済学』については、この「乱読ノート」ですでに紹介しているが*1、本書の内容はその続編と言いうる。半分くらい重複している(悪く言えば、同じ主張の繰り返しが多い)。ブレトン・ウッズ体制の崩壊による世界経済の構造変化(グローバル化)、工業社会からポスト工業社会(知識社会)への転換は、『地域…』と本書の両方の議論に共通する歴史的背景である。『地域・・・』では、税制改革の具体的なプログラムの説明に多くの紙幅が割かれていたのに対して、本書では、(著者が理想と見なしている)スウェーデンをはじめとする北欧諸国の社会・経済・政治システムの説明に多くの紙幅が割かれている。

・・・国民の安心を保障するのは、制度ではなく、制度を支える人間の絆である。年老いても必ず社会の他者が生活を支えてくれるという人間の絆への信頼こそが、安心を保障するのである。
こうした人間の絆をスウェーデンでは、社会経済モデルの鍵を握る概念として位置づけて、「社会資本(social capital)」と呼んでいる。(p.12)

・・・貧困者に限定した現金給付の支出ウェイトの高い国は、アメリカ、イギリスというアングロ・サクソン諸国である。
これに対して貧困者に限定した現金給付である社会的扶助支出のウェイトの少ない国は、スウェーデンデンマークというスカンジナビア諸国である。・・・。
・・・格差や貧困率の低いスカンジナビア諸国は社会的支出のウェイトが高い。つまり、福祉、医療という対人社会サービスのウェイトが高い。逆にアングロサクソン諸国は社会的支出のウェイトが低い。・・・。
貧困者に限定して現金を給付することを「垂直的再分配」と呼んでおくと、育児や養老などの福祉サービスや、医療サービスを社会的支出として、所得の多寡にかかわりなく提供していくことは「水平的再分配」と呼ぶことができる。・・・。
一見すると、垂直的再分配のほうが、格差や貧困を解決するように思うかもしれない。貧しき者に現金が給付されるからである。ところが、現実には水平的再分配のほうが、格差や貧困を解消してしまう。・・・。
・・・現金給付にはミミッキング(mimicking)つまり「擬態」という効果が生じる。つまり、「お金のない振りをする」という不正が生まれる。
ところが、サービス給付だと、振りをするという「擬態」が生じない。・・・。
こうして工業社会から知識社会への転換にともなって、社会システムの「分かち合い」を政治システムに埋め込むことが重要になってくる。垂直的再分配から水平的再分配へ、現金給付からサービス給付へとシフトすることが必要になってくるからである。(pp.113-9)

・・・アメリカや日本の場合と、スカンジナビア諸国の場合では、雇用の弾力性を高めている目的がまったく異なる。スカジナビア諸国が雇用の弾力性を高める目的は、産業構造を転換していくことにある。つまり、旧来の衰退している産業から、知識産業など新しく成長していく産業へと労働者を転換させるために、雇用の弾力性を高めているのである。
・・・成長産業へと労働者を移行させるためには、再教育、再訓練などの積極的条件を整備しなければならない。これを積極的労働市場政策と呼ぶ。・・・。
旧来産業から新しい産業へ労働を移動させるために、雇用の弾力性を高めていくという政策を象徴するのが、デンマークが明示的に訴えている「フレキシキュリティ(flexicurity)」という戦略である。フレキシキュリティとは、「柔軟性」を意味する「フレキシビリティ(flexibility)」と、「安全」を意味する「セキュリティ(security)」とを合成した造語である。つまり、労働市場の弾力性(フレキシビリティ)」を高めるとともに、生活の安全保障(セキュリティ)は強化するという政策が、フレキシキュリティという戦略である。
生活の安全保障として、失業者の生活を保障するために手厚い社会保障を整備する。しかし、それだけではなく、アクティベーション(activation)、つまり失業者に対する再教育や再訓練という積極的労働市場政策によって、新しい就業を保障していく。・・・。
知識社会への転換を提唱しているスウェーデンも、労働市場を弾力的にしながら、積極的労働市場政策を進めている。(pp.165-7)

著者は自らが唱える「分かち合い」の思想を「異端」の思想(p.196)であると言う。経済学者である著者が、自らの議論を構築するにあたって、「ホモ・エコノミクス(経済人)」の仮説――「人間は経済活動において自己利益のみに基づいて完全に合理的に行動する」という経済学における理論的仮説――をきっぱりと退けていることは、確かに「異端」の名前にふさわしい。

共同体にあっては、すべての共同体の構成員が、共同体に参加して任務を果たしたいと願っている。高齢者であろうと、障害者であろうと、誰もが掛け替えのない能力をもっている。しかも、そうした能力を共同体のために発揮したいという欲求をもっている。そうした欲求が充足された時に、人間は自分自身の存在価値を認識し、幸福を実感できるからである。これが「分かち合い」の思想である。(p.14)

僕自身もまたそんな著者の主張に強い賛意を表明する異端者である。ただ、疑問点がまったくないわけではない。「果たしてスウェーデンデンマークといった人口規模が日本と違いすぎる国(それぞれ約900万人と約550万人)は日本の将来モデルになりうるのか?」という疑問がどうしても湧きあがる。この点は本書の主題に関わるだけにもっと丁寧に説明して欲しかった。また、著者は「「同一労働、同一賃金」の原則」(p.162)の確立を唱えるが、これはあまりにも現実離れしているように思われた。同じ労働であっても儲かっている会社と儲かっていない会社では社員の給料が違うのは当り前ではないのか?

「分かち合い」の経済学 (岩波新書)

「分かち合い」の経済学 (岩波新書)

評価:★★★☆☆