乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

ラース・マグヌソン『重商主義』

刮目の書。訳者のお一人であるK谷先生から賜った。感謝。

まず、通俗的重商主義理解を確認しておきたい。本書の内容は通俗的重商主義像(およびそれをめぐるその後の研究状況)に対して根本的反省を迫っているからである。

アダム・スミスは、『国富論』第4編において、過去の経済思想(ならびにそれによって基礎づけられる経済政策)を、現代(同時代)的関心から、大胆にも重商主義重農主義に二分する(古代・中世の経済思想は意図的に割愛されている)。しかも、重農主義には1章が割かれただけで(その評価はかなり好意的)、第4編の紙幅の大半は重商主義への批判に充てられている。スミスは、自らが擁護に努める自由主義の経済思想の正しさを説得的に示すために、重商主義を「貨幣(金銀)と富と同一視し、貨幣の増大を順調貿易差額に求め、保護主義を推奨する誤った経済思想」として描き出した。言い換えれば、先行する経済論者と自分自身との間の断絶(自身の主張の革命性)を強調したわけである。『国富論』の成功によって、誤った経済思想としての重商主義という一般的イメージが定着した。

その後の研究の進展は、スミスによって戯画化・矮小化された重商主義像に対する修正・再評価をかなりの程度促した。重商主義は長期間にわたって出現した諸々の経済思想に対する総称であるがゆえに、そこには様々な変種が含まれており、先の一般的イメージに合致しない数多くの経済思想の存在が指摘された。しかし、それは同時に、重商主義の体系性・首尾一貫性の欠如を含意するために、重商主義という言葉の使用それ自体に疑義が生じる。

以上のような重商主義をめぐる問題状況を念頭に置きながら、著者は以下のようにはっきりと述べる。

アダム・スミス以来、今日に至るまで、重商主義は経済的自由主義の対立物と見なされ、古典派ならびに新古典派経済学からはできるだけ遠くに追い払っておくものと見なされてきた。本書で明らかにするつもりだが、これは完全な見当違いである。(p.xvi)

重商主義体系」が世界的に有名になったのはスミスによってである。『国富論』でスミスはこの「体系」の際立った特徴を描くためにきわめて長い章をついやした。スミスによれば、この体系の核心は富と貨幣の混同という「通俗的な」誤謬である。(p.37)

しかし、スミスの重商主義理解の不十分さを示すにあたって、著者は重商主義の経済学説の多様性に目を向けるだけに終わらない。重商主義は学派とまでは言えないまでも、少なくともバラバラの議論の寄せ集めではなく、ある特定の政治的・経済的文脈のなかで展開された、一定の体系性を備えた言説であることを示そうとする。この場合の「ある特定の政治的・経済的文脈」とは、以下のようなものであると考えられる。

重商主義の学識に共通するテーマは、国富と国力をいかにして獲得するかという問題であった。・・・すでにルネサンス期に、国家はどのように富裕かつ強力になるべきかを論じた多くの説明書――マキアヴェッリのスタイルやドイツ帝王学書のスタイルでの――があったが、重商主義の学識の目新しさは、外国貿易と商業とを強調した点にあった。外国貿易はある国家の繁栄を増進する最も効果的な手段であることが、強調された。外国貿易によって特化の発生と近代的製造業者の確立とが可能となった。国際貿易によって一国はまた、工業製品を売り、代わりに原料を買うことができた。(pp.viii-ix)

そして、この場合の「一定の体系性」の核をなす概念が「貿易の差額(balance of trade)」である。著者によれば、17世紀を通じて、この概念は「貿易の差額」から「労働の差額」へと意味の重心をシフトさせていった。*1

1620年代以降、繁栄する国は順調貿易差額をもたなければならないという見解が、経済的文献に頻繁に現れた。・・・17世紀末に至るまではずっと、この教義は主に、地金と貨幣が国家共同社会に流入することがもつ積極的な役割を強調するために用いられた。しかしながら、この時期以降、それはこれと違って、プラスの「労働差額」の利益を示す、より比喩的な意味で用いられた。(p.149)

・・・1690年代は、経済的思考と著作とにおける急速な隆盛を包含した。この10年間は疑いなく重商主義的著作の絶頂期を包含した。その見解の多くのもの、その多方面にわたる独特の文脈、この10年間に現れた共通の表現形式は、少なくとも次の半世紀か、あるいはそれ以上の期間が受け継ぐ大きな流れを方向づけることになった。
この10年間に特有の際だった特徴は、チャイルド、ダヴナント、バーボン、ポレックスフェン、ケアリ、その他の著作家が、雇用と製造業の役割を強調したということであった。この強調は1700年以降に、成熟した「外国の支払う所得」の経済発展論に発達した。この理論はある程度まで、順調貿易差額を全面的に放棄することなく、それを再公式化しようとする試みであることを含意していた。しかしながら、これら2つの「理論」は核心においてまったく異なるものであった。後のほうの学説〔外国の支払う所得論〕は貴金属流入の必要を強調するよりも、むしろ生産・雇用・収入を拡大させるために外国貿易はどのように組織化されうるであろうかということに焦点を合わせた。(pp.195-6)

・・・第一に、その[順調貿易差額説という]学説はさまざまな著者のあいだで異なる意味をもっていたようである。第二に、少なくともイギリスにおいて、その学説の内容は時が経つにつれて根本的に変わった。それゆえに17世紀末には、それは以前とはまったく異なる内容の「労働差額」ないし「外国が支払う所得」説に発展していた。(p.212)

言語の実践における使用により、言語は徐々に変形する。われわれの場合には、これが次のようなことを意味することは確かである。すなわち、「順調貿易差額」のような概念が新しい状況のもとで用いられたときに、その意味がゆっくりと変わったということである。それは貿易の差額から、徐々に仕事・労働の差額を示すようになった。(p.308)

著者は、数多くの文献を紹介しながら、このような重心移動を説得的に示そうとする。スミスは自身自身と重商主義との断絶を過度に強調したが、現実は異なっており、かなりの連続性を示している、と著者は理解している。

スミスが『国富論』で重商主義の代表的文献として批判したトマス・マン『外国貿易によるイングランドの財宝』は、確かに順調貿易差額の重要性を説いたけれども、その真意はこれまで正しく理解されなかった。それは決してスミスが理解するような「オランダに対する攻撃的な経済政策に加担した党派的なテクスト」(p.85)でない。著者によれば、スミスがその中心的メッセージを誤解したのは、それが1620年代に書かれたにもかかわらず、マンの死後の1660年代に出版され、オランダ人に対する反感を煽るために利用されたからである。

・・・マンが、彼より早期の解釈に挑戦する、経済に関する新たな別の概念を提起したことは明らかである。この革新の要点は、非人格的な需要と供給の法則からなる一つのシステムとして、経済を理解することであった。(pp.96-7)

マンの『外国貿易によるイングランドの財宝』は、とりわけ経済過程を抽象的かつ一般的な方法で描写した。いかなる短期の混乱も、機械的諸力からなる、ほぼ自動均衡化するシステムに関する彼の見方に干渉することは許されなかった。(pp.131-2)

マンにとって、順調貿易差額の概念は、「市場の諸関係によって支配される、均衡化する諸力からなる、きわめて抽象的な経済世界を描」(p.114)くために用いられた。経済現象を原理的に描き出そうした点において、『外国貿易によるイングランドの財宝』は、「重商主義宣言」と呼ばれるにふさわしい著作である。それは1690年代に十全な形で出現を見る「交易の科学」の礎を築いたのである。その出現は学問史における一種の「革命」であった。

・・・一般的には市場過程が、特殊的には外国貿易の増進が、どのようにして国民経済の富と力を増進させるのか、ということに議論を集中する「公益の科学」(science of trade)が出現したのは、とくに1690年代においてであった。この10年間に数多くの経済的著作家は、商業と交易を基礎とする自律的な体系を支える原理の確立を求めて努力した。(p.133)

重商主義革命」の最も重要な構成要素はおそらく、経済を[国家や政治から独立した]システムとして理解しなければならないという見解であった。(p.312)

このような「革命」的認識が特定の階級・利害集団の反映(利害の表明)としてなされたわけでなかった、ということもマグヌソンの力説するところである。

ケインズ重商主義理解の再検討、ベーコン主義が重商主義に及ぼした影響、イギリス以外の諸国における「交易の科学」の未発達など、紹介すべき論点はまだまだ多く残されているけれども、議論がこれ以上煩雑化するのを避けるために、そろそろこのあたりで筆を置きたいと思う。本書の深遠な思想世界をどれだけ正しく紹介できたか、甚だ心許ないが、本書が第一級の研究書であることは間違いない。それは断言しよう。重商主義・古典派の研究者であれば、今後、本書への言及は不可避となるだろう。

重商主義―近世ヨーロッパと経済的言語の形成

重商主義―近世ヨーロッパと経済的言語の形成

評価:★★★★★

*1:tradeという語の意味の変容に関する先行研究としては、大塚久雄の研究が有名である。大塚「重商主義における《Trade》の意味について」、『著作集』第6巻所収。