乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

内橋克人『悪夢のサイクル』

一貫して地方の衰退と共同体の崩壊を憂い、共生経済のヴィジョンを説き、新自由主義ネオリベラリズム市場原理主義)、マネー資本主義、規制緩和に反対してきた反骨の経済評論家の集大成とも言える著作である。

本書が同じ著者の他の著作と比べて新鮮なのは、第一に、ネオリベラリズムという思想が産声をあげアメリカの政権の中枢に浸透し世界中を席巻するまでの経緯を、その思想を生み出したシカゴ学派の経済理論とその代表的人物であるミルトン・フリードマンの生涯をたどることによってわかりやすく説明していることであり、第二に、新自由主義的な政策が必然的に引き起こす景気循環(大量の投機マネーの流入と流出に伴うバブルの発生と崩壊、著者はそれを佐野誠教授に従って「ネオリベラリズム・サイクル」と呼ぶ)が国家の実体経済を破綻させてしまうことの危険性を理論的に洞察していることである。

フリードマンをめぐるエピソードがたいへん興味深く、学生たちを経済思想史の世界へと誘う格好の材料となるだろう。彼が極端な自由主義思想を唱えるに至った背景として、彼がユダヤ人であり、一族がナチスの迫害を受けたために、国家に対する根本的な不信感を醸成させたことが指摘されている。本来、彼の自由主義思想は「国家からの自由」をうたう「抵抗の思想」として出てきたはずなのに、国家による民間経済活動に対する一切の規制を嫌悪するがゆえに、その「抵抗の思想」が「資本主義の世界では、儲かるときに儲けるのがジェントルマンである」(p.96)といういう投機の全面的弁護論へと化けてしまうのが、何とも皮肉である。フリードマンが国家(ナチス)によって「人間としての尊厳」を踏みにじられたことが確かだとしても、経済上の行為にも人間としての尊厳があるはずである。少なくともフリードマンの師であるフランク・ナイトはそういう考え方を持っていた。*1

かつて僕は構造改革規制緩和)論への違和感、その胡散臭さを、松原隆一郎『長期不況論』へのレヴューという形で、次のように表明したことがある。

構造改革論反証可能性を欠く「科学的に無意味」な言明である。「よくぞ言ってくれた」と拍手したい。これこそが構造改革論に対する僕の違和感の根幹なのです。*2

本書でも同様のことが指摘されていて、個人的に励まされた。

ネオリベラリズムとは「逃げ水」のようなものです。
そこでは市場は基本的に安定していて、不安定になるのは、そこに政府が介入するからだ、規制があるからだ、というのが根本理念となっています。
ですから何か欠陥が出てくると、「それは規制緩和が不十分だから起きるのだ」という話になり、「とにかく市場にすべてを任せろ」と主張する。まるで逃げ水を追っているようなもので、彼らにとってはどこまで規制緩和しても未完成なのです。
しかし規制緩和をいくら追い求めても、完成はありません。(pp.177-8)

それでは、今や世界中を席巻している新自由主義に代わりうるような未来への指針は存在するのか? 確かに地方経済の衰退は深刻な問題だが、今さら地方にばら撒くわけにはゆかない。著者は「再規制」を主張する。

日本では再規制というとたいへんな反発があるのですが、再規制は絶対に必要なことです。
規制は本来、決して悪などではありません。それが問題となるのは、それこそ縁故資本主義の下で、規制が政治的な力の強い特定の利害関係者のために制定されたり、sるいはかつては合理性のあった規制でも時代の現状にそぐわなくなったりした場合であって、放置すれば破壊的な力をほしいままにするマネー、市場というものを、なんとか人間の幸福のために飼い馴らしていこうという努力を悪者扱いするのは、根本的な間違いです。
規制という言葉が悪ければ変えればいいのであって、私は「市民的制御」という言葉を使っています。
私は今後の世界は、規制緩和(デレギュレーション)に対する再規制(リレギュレーション)によって、市場を市民社会的制御のもとにおくてゆくべきだと思うのです。(pp.178-9)

こうした著者の主張を背後から支えているのは、ミヒャエル・エンデが強調した「お金」と「マネー」の区別である(p.188以下)。「お金」とはパン屋さんでパンを買うための貨幣で、実体経済に裏づけられているのに対して、「マネー」とは投機のために使われる貨幣で、実体経済の裏づけを欠く。「マネーをなくしてお金に戻せ」というエンデの遺言を、著者は真摯に受け止める。その脈絡で、「投機を目的とした短期的資金の移動を抑制する(高率の税金を課す)ことで、世界経済はより安定し、実体経済を中心とした姿に変わっていくはず」というトービン税の考え方が強く支持されている。また、ノキア社(フィンランド)の躍進やリナックスの開発なども、共生の原理で動く組織や社会の例として好意的に紹介されている。

来年度(2010年度)春学期「経済学説史1」のテキストとして本書を使用することにした。近年の学生の少なくない割合が新自由主義的な弱肉強食の価値観を当然視しすぎているように僕には思われてならない。自分たちのことをエリートだと自覚しているわけでもないのに、弱者に対して異様に手厳しい。「世の中ってもともとそういうもんとちゃうのん。しゃーないやん」といったニヒリズムもうかがえる。*3自分たちが無意識に吸い込んで骨肉化させている価値観を、講義を通して少しでも相対化してもらいたいのだ。講義ノートを一から作り直すので大変だが、受講生の反応が楽しみだ。

悪夢のサイクル―ネオリベラリズム循環

悪夢のサイクル―ネオリベラリズム循環

評価:★★★★★

*1:本書では、竹中平蔵氏が日本においてフリードマンの役割を果たした人物として厳しく批判され、竹中氏と並んで規制緩和を後押しした「政商」としてオリックス宮内義彦氏も批判されているが、さすがに十数ページ(第5章)で論じるにはやや無理のあるトピックだ。宮内氏の「政商」としての側面については、有森隆+グループK『「小泉規制改革」を利権にした男 宮内義彦』 が詳しい。「乱読ノート」2010年1月27日(http://d.hatena.ne.jp/nakazawa0801/20100127)でレヴューしている。

*2:旧「乱読ノート」2005年2月→http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nakazawa/reading2004.htm

*3:以上、印象論で申し訳ない。