乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

杉原四郎『J・S・ミルと現代』

第一人者の手によるJ・S・ミルの生涯と思想(特に経済思想)についての平易な解説書である。ミル思想の解説書は数多く出版されているが、『経済学原理』に十分なページを割いたものは案外少なく、この点において本書の価値は公刊から30年近い歳月を経てもほとんど減じていない。文章は読みやすく、衒学趣味にまったく走っていない。論理も明快である。

リカードウおよびマルクスとの関係で語られがちなミルの経済思想だが、本書はスミスおよびマルサスとの関係に関する叙述が充実しており、後者2人を専門としている僕にとって、たいへんありがたいものであった。多くの新しい発見があった。ウェークフィールドの経済学史上の位置なんてまったく知らなかった。スミスの「余剰はけ口説」の再評価した人物だったとはね(pp.23-5)。

著者はミル思想の現代的意義を次のように説いている。

ミルがかえりみられるべき現代の問題として、私はつぎの三つをあげることができると思います。
第一はあるべき社会体制の問題、資本主義か社会(共産)主義かという問題です。
第二はマス・デモクラシーのもとでの個性の喪失という問題です。
そして第三は、生産力信仰への懐疑であり、人間にとって真の進歩とは何かという問題です。(pp.58-9)

ミルは進歩の問題を、経済的・産業的進歩(生産力の向上)のレベルでなく、人間的進歩(人間の知的・道徳的な状態の向上)といういっそう広い視野からとらえなおそうした。この「人間的進歩」の概念を「分配」「収穫漸減」「停止状態」と関連づけて理解できれば、本書のエッセンスを理解できたことになるはずだ。

『論理学体系』についての説明がほとんどなかったことが残念だが、さすがにそれは「ないものねだり」だな。新書に何もかも求めるわけにはゆかない。

これぞ古き良き時代の骨太な新書である。名著。

J.S.ミルと現代 (1980年) (岩波新書)

J.S.ミルと現代 (1980年) (岩波新書)

評価:★★★★★