乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

堂目卓生『アダム・スミス』

本書は「経済学の祖」アダム・スミスの二大著書『道徳感情論』と『国富論』の論理的関係を丹念に読み解いた刮目の書であり、新書で発表されたことが「もったいない」と思ってしまうほどの新鮮で本格的なスミス論である。『道徳感情論』におけるスミスの人間観と社会観を考察し、その考察の上に立って『国富論』を読み直すことで、市場主義者・自由放任主義者としてのステレオタイプなスミス像の改訂を目指す。著者が新たに提示するのは、人間の真の幸福の所在とその実現を考え続けた熟慮の思想家としてのスミス像である。

本書の構成は以下のようになっている。

序章 光と闇の時代
 I 『道徳感情論の世界』
第一章 秩序を導く人間本性
第二章 繁栄を導く人間本性
第三章 国際秩序の可能性
 II 『国富論』の世界
第四章 『国富論』の概略
第五章 繁栄の一般原理(1)――分業
第六章 繁栄の一般原理(2)――資本蓄積
第七章 現実の歴史と重商主義の経済政策
第八章 今なすべきこと
終章 スミスの遺産

僕は勤務先の大学で、この10年間、「経済学史」の講義を担当してきた。そこでは常にアダム・スミスを中心的人物にすえて、とりわけ『道徳感情論』から『国富論』への発展過程を解説しながら、「そもそも経済学とはどのような学問なのか?」という根本問題を受講学生たちと一緒に考えることに努めてきた。そういう意味では、本書の主題は僕にとって「超」がつくほど馴染み深いのだが、それにもかかわらず、本書には新しい発見が目白押しだった。これまで自分が行ってきた講義について、多くの反省材料を与えてもらった。
 自分の講義では長らく、アダム・スミスは人間本性を「利己心と同感を具備する」と把握したと教えてきたのだが、本書が示すように、そこに「賢明さと弱さを具備する」という視点を加えると、「公平な観察者」および「不規則性」をこんなにも平易に説明できるとは、たいへん驚かされた。

また、「秩序を導く人間本性」のほうを強調しすぎて、「繁栄を導く人間本性」が『道徳感情論』に描かれていることを見落としてきたように思う。社会を秩序づける人間本性に着目した著作が『道徳感情論』で、社会を繁栄させる人間本性に着目した著作が『国富論』という、という平板な理解に立っていたように思う。そのことの不十分さに気づかされ、大いに反省させられた。

僕自身の専門的研究分野の一つである救貧問題との絡みで非常に印象深かったのは、スミスがいかに「他人を見る/無視する」「他人から見られる/無視される」という視覚の問題を重視しているか、ということである。ここでは詳しく述べる余裕はないが、『道徳感情論』が再三にわたって指摘している「無視されること」「同感してもらえないこと」の悲しみは、社会学で言うところの貧者の「社会的排除」の問題と密接に関わっているように思われた。

本書の白眉は第3章であろう。『道徳感情論』の丹念な読解から、国と国の間に共通する「公平な観察者」の存在を明るみに出し、その判断をもとに国際法が制定され、国際秩序の形成と維持が可能となる、という新鮮な解釈を提出している。また、それを通じて、スミスの自然法学観および「豊かさの一般原理」へのまなざしを再構成し、『道徳感情論』が『国富論』への道を切り拓いたことを説得的に論証している。

経済学史研究の現代的意義という点でも、本書は非常に大きな貢献をしている。グローバリゼーション、構造改革規制緩和といった昨今の一連の流れの功罪を冷静に議論しなおす材料がスミス思想の中に胚胎していることを明確に示すことに成功した。そのことによって、我々経済思想史研究者が決して古典の訓詁学に終始しているわけではないことが、一般読者にもはっきり伝わるように思う。

スミスにとって、自然的自由の体系を確立することは、社会の秩序と繁栄にとって望ましいことであり、あらゆる社会の為政者がめざすべき理想であった。しかしながら、現実が自然的自由の体系とは異なる状態にあるからといって、急激な改革を行なえば、植民地政策や外交政策における失敗と同様、多くの利害関係者に大きな損失をもたらし、彼らの不満を招くことになるであろう。
たとえば、政府によって優遇された産業で働く人がいたとしよう。この人は、創意と工夫を用いて勤勉に働いてきたとしよう。今、この産業に対する政府の優遇措置が非効率で不公平なものとして世間から非難され、政府が世間の非難に屈して、それを廃止したとしよう。その結果、この人は、それまでの収入よりも低い収入しか得られなくなったとしよう。この人は、自分の境遇の変化を、どのように受けとめるであろうか。おそらく、この人は、自分は勤勉と工夫によって収入を得てきたにもかかわらず、そして優遇されるべき重要な産業で働くことによって社会に貢献してきたにもかかわらず、世間は、収入を不当に得てきた人間として自分を非難し、自分から収入を取り上げたと思うであろう。この人は、非難に値しないと思われる行為に対する世間の非難、処罰に値しないと思われる行為に対する世間の処罰に我慢できないであろう。そして、このような苦境に自分を追い込んだ本当の原因は、優遇政策を導入し、維持し、廃止した政府にあると考えるであろう。この人は、世間に対して怨みを抱くとともに、政府こそが非難され、処罰されなければならないと考えるようになるであろう。このように考える人の数が増えて、団結し、政治力をもつようになれば、政府は、それ以上の改革を進めることはできなくなるであろう。政府に対する彼らの非難がさらに高まれば、彼らは、改革とは直接関係ない些細なことで政府を糾弾し、場合によっては暴動を起こすかもしれない。
このように、人々の感情を無視した急激な改革は挫折し、社会秩序を不安定にする危険性をもつ。したがって、自然的自由の体系に向けた規制の緩和・撤廃は、人々の感情に配慮しながら「徐々に」進めなければならない。
・・・改革は、それによって損害を被る人びとの感情に配慮して進められなければならない。どのような個人によっても、決して政府が暴力を用いたと思われてはならない。自然的自由の体系への完全な復帰は「今すなべきこと」ではなく、ゆっくりと、時間をかけて、慎重に行なうべきことであった。スミスは、穏健で現実的な改革論者であった。(pp.240-6)

このようなスミスの思考が、スピードとフレキシビリティを重視する「新資本主義」*1の唱導の対極にあることは、もはや言うまでもないだろう。

とにかく、最初のページから最後のページまで刺激を受け続けた。この場を借りて著者に最大級のお礼を申し上げたい。

評価:★★★★★