乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

カール・ポランニー『経済と文明』

本書は、経済史・経済人類学・経済体制論といった分野で不滅の業績を残した経済学者カール・ポランニー(1886〜1964)の遺著である。大学院(修士課程)の授業のテキストとして輪読した。

18世紀西アフリカのダホメ王国は、奴隷貿易を通じてヨーロッパ資本主義と接触したが、その奴隷貿易の拡大にもかかわらず、需要と供給の法則(市場メカニズム)によって支配されない非市場経済を王国の基本的な経済システムとして維持することに成功した。本書でポランニーは、このダホメ王国の経済システムの実証的な分析を通じて、非市場経済社会の原理と制度的運営を明らかにしようとした。

ポランニーは資本主義社会の歴史的特殊性を強調する。土地や労働が商品化され(擬制商品)、需要と供給の法則によって支配されるのは、人類史上決して常態でなく、むしろ病態と言ってよい。それでは、より根本的・普遍的社会であるはずの非市場社会では、いかなる原理にもとづいて生活世界の再生産がなされるのか? ポランニーは「再分配」「互酬」「家族経済」という三つの原理をあげる。

人間の世界はつねに市場制度に向かうシステムだと経済学者によって解釈されてきたが、そのことには薄弱な根拠しかない。実際には、交換以外の形態が、前近代世界の経済組織の中で行なわれていた。原始共同体においては、互酬性が経済の決定的特徴として現われるし、古代経済においては、中央からの再配分が広く行なわれている。より小さい規模ではあるが、農民の家族の生活パターンは家族経済である。しかし、互酬性と家族経済は、いかに広く見られたものであっても、交換に還元することのできるものだけを経済現象だとする近代の観察者には、不可視のものとしてとり残された。
ダホメの経済は、地方市場によって補われている互酬行為と、家庭経営の網の目をとおして調和させられている再配分的支配と、地方的自由のバランスの上にのっていた。(p.34)

非市場社会においても、「交換」の原理が全面排除されるわけではない。しかし、そこでは個々の商品市場が孤立していて、一つのシステムとして統合されない。

ダホメの市場は価格形成市場としては機能しなかった。・・・地方市場間の価格差があっても、市場間の財の流動はひきおこされなかった。・・・市場間の投機によって利潤がえられることもなかった。だから、市場システム的なものは何もなかったのである。(pp.162-3)

以上が、非市場経済社会の原理を主として扱った、本書の前半の概要である。

本書の後半は、非市場経済社会の制度的運営について論じている。奴隷貿易において行政管理された貿易港が存在したこと、利潤を考えない物々交換というアフリカ土着のシステムがヨーロッパ側に強制されたこと、子安貝貨幣の金に対する価値が安定していたことなどが分析の対象となっているが、正直なところ、十分に理解できなかった。何度読み返しても、内容が頭に入ってこなかった。

ポランニーの英語はネイティブのものでないし(ポランニーはハンガリー人)、しかも未完の遺稿であるから、訳者が困難な訳業を強いられたことは十分に理解できるが、それらを斟酌しても本書の訳文はあまりに読みにくい。本書は1975年にサイマル出版社より刊行され、その後、二度にわたって改訳がほどこされたが(一度目が1981年サイマル出版社、二度目が2004年ちくま学芸文庫)、二度の改訳を経ても依然として読みにくい。しかも本質的な誤訳が残っているらしい。

友人の同業者のご教示によれば、「たとえ過去の時代のいくつかの特徴が現代に教訓を与えるように見えても、私たちはそれでも現在の未開の諸世界のなかに理想的なものがあることに注意しなければならない」(p.27)の「理想的なものがある」は「理想的なものがない」が正しいらしい。なるほど、その直前にポランニーは「全体としては、この仕事の展望は好古家的なものではない」(p.27)と明言しているのだから、「現在の未開の諸世界のなかに理想的なものがある」とポランニーが考えていたのだとすれば、つじつまが合わない。ポランニーの本懐はノスタルジーではなく人間の経済の本質把握にあるのだ。

この文章にかぎらず、文意不明の箇所は、原書(Dahomey and the Slave Trade)で逐一確認したかったのだが、原書を所蔵している国内の図書館が予想外に少なくて、結局入手できなかった。原書を欠いたまま苦労して読み進めたが、隔靴掻痒の感を最後までぬぐえなかった。不完全燃焼であった。

経済と文明 (ちくま学芸文庫)

経済と文明 (ちくま学芸文庫)

評価:★★☆☆☆