乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』

新自由主義市場原理主義)のバイブルとして名高いフリードマンの主著の新訳。自由市場の利点を様々な角度から解き明かし、国家権力(政府)の市場への恣意的な介入を厳しく批判している。

本書(初版)の公刊は1962年だが、「まえがき」によれば、本書のもとになる講義は1956年6月に行われたらしい。当時はケインズ経済学の黄金時代であり、フリードマンの主張は異端視されていた。しかし、半世紀の間に、両者の立場は完全に逆転した。ケインズ経済学の権威の失墜とともに、フリードマンは復活した。半世紀以上も前にフリードマンが主張した「教育バウチャー」(第6章)、「企業の社会的責任」(第8章)、「一律的な比例課税」「負の所得税」(第10章)などは、当時のアメリカよりも今の日本においてのほうが、ホットなトピックであると言ってよいだろう。

フリードマンの経済思想については、様々なテキストで紹介されることが多いので、おおよそのことは知っていたが、やはり彼自身の著作を直接読んで知ったことも多い。いちばん強い印象を残したのは、ユダヤ系移民の子としてニューヨークで生まれたという彼の出自が、彼の市場擁護と密接に関係していたことである。

たとえばパンを買う人は、小麦を栽培したのが共産党員か共和党員か、民主主義者かファシストかなど気にしない。パンに関する限り、黒人か白人かも気に留めないだろう。この事実から、人格を持たない市場は経済活動を政治的意見から切り離すこと、そして経済活動において、政治的意見や皮膚の色など生産性とは無関係な理由による差別を排除することがわかる。
いまの例からわかるように、現在の社会において競争資本主義が維持され強化されたとき最も恩恵を受けるのは、黒人、ユダヤ人、外国人など少数集団である。こうした少数集団は、多数集団から疑惑の目で見られたり憎悪の対象になったりしやすい。にもかかわらず、じつに逆説的な現象だが、自由主義に敵対する社会主義者共産主義者には、これら少数集団に属す人が目立って多い。彼らは、市場の存在によって多数集団の威圧的傾向から守られていることを認めず、いまなお残る差別は市場のせいだと勘違いしている。(pp.60-1)

この引用は総論的な第1章からだが、彼は差別に関する単独章(第7章)も別途設けており、差別という問題を非常に重要視していたことがうかがえる。市場が時に暴力的であることは確かだが、国家権力による暴力(ホロコーストを想起せよ)に比べれば取るに足らない、という認識が彼にはあったのだろう。

本書は、ミル『自由論』、ハイエクの『隷従への道』と並んで、リバタリアニズムの三名著と呼ばれているらしい。実際、若き日のフリードマンが『自由論』から多くを学んだことは、伝記的研究からも知られている。しかし、『資本主義と自由』にミルの名前はただ一度登場するだけで、しかも参照されている著作は『自由論』ではなく『経済学原理』である(p.307)。このことは何を意味するのだろうか? たいへん興味深い。最近ずっとこの問題を考えている。

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

評価:★★★★★