乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

マッド・アマノ『マッド・アマノの「謝罪の品格」』

著者はパロディ写真作家。 写真週刊誌『FOCUS』(新潮社、廃刊)の連載「狂告の時代」で広く知られる。本書はそんな著者が12年前から収集してきた300件超の「頭下げ(謝罪)会見」の写真入り新聞記事のコレクションの中から興味深い記事を厳選し、自身のコメントを付して、日本独自の特異な「謝罪文化」(「これほど真剣に謝っているのだから許そうじゃないか」)の問題性(責任の所在や事実究明の曖昧化)を風刺的手法で告発している。

僕が本書を手に取った動機は大きく2つある。第1に、本書でとりあげられている雪印事件や三菱自動車事件は、かつて僕自身がビジネス倫理関係の論文を書いた際に企業不祥事の典型的事例としてとりあげたことがあり、著者がそれらをどのように扱うのか、強い興味を覚えたからである。第2に、大学に勤務する者として、本書でとりあげられている甲南大学生の痴漢でっち上げ事件に対する学長謝罪の問題を看過できなかったからである。「大学の責任」を考える際の絶好のサンプルのように思えて、著者がそれをどのように扱うのか、興味を覚えずにいられなかった。

不祥事を起こしやすい企業が不利な情報を上にあげない隠蔽体質(コミュニケーション不全)を有していることは、本書のみならず拙論も強調したところであり、本書は自説を上書きしてくれた。謝罪の儀式性が、責任の所在(本人責任)の曖昧化につながっているという指摘には、強く同感する。

著者が指摘するように、不特定多数が不快を感じたにすぎない場合と人命に関わるような被害が発生した場合をごっちゃにしてはならないと思う。人命にかかわる不祥事を起こした企業や国の責任を追及することよりも、キャラのたつ個人への執拗な取材と報道のほうを優先してしまうマスコミの体質(p.212)に対して、僕は著者と同様の疑念を以前から抱いてきた。「有名税」と言ってしまえばそれまでだが、幸田來未の「失言」をめぐる一連の騒動は、単なるバッシング以上のものでなかったように思えるし、朝青龍の「横綱の品格」をめぐる一連の騒動についても、ほぼ同じことが言えるように思う。朝青龍が気の毒だ(p.140)とする著者の見解を僕も共有している。

日本において謝罪は内容空虚な儀礼にすぎない。だからこそ国民は場合を問わずすぐに謝罪させたがるのだろうか。しかし、それは責任の所在を曖昧化させるだけではないのか。謝る理由がない時に謝る必要はないはずだ。

大学が犯した罪ではないのだから謝罪の必要はない。必要なのは、犯人学生と大学の責任を明らかにして、それぞれが負うべき責任を負うことだ・・・。そして学長が謝らなかったことに対して、米国の世論はまったく抗議をしない。
私が日本の学校当局の謝罪に疑問を抱くのは、事件を起こした本人の責任と、教育機関としての責任の範囲を曖昧にするように思えてならないからだ。(pp.156-7)

しかし、こうした「主義」「正論」をこの国で貫くことがいかに危険なことか、誰もが皮膚感覚で知っている。あくまで仮定の話だが、僕自身が将来的に大学行政に携わることがあるとして、この「主義」「正論」を貫ける自信はない。不測の事態をすみやかに収拾するために、謝罪はたいへん有効な手段である。この厳然たる事実はやはり否定できない(その場しのぎになりやすいことも否定できないけれども)。悩ましい。

ただ、パロディ作家の著者にしては、コメントがストレートすぎて、あまり面白くない。パロディが欠如している。何だか自粛しているようにすら見える。また、ことあるごとに企業不祥事の裏に外国資本の陰謀を勘ぐっているのも、何だか興ざめである。テレビ業界の視聴率至上主義は確かにゆゆしき事態だが、それを批判するのに視聴率調査のサンプル数の少なさを挙げるのは、統計学的に考えて妥当とは言えない。

あえて買って読むほどの本ではなかったかもしれない。軽い読み物以上でも以下でもない。

評価:★★☆☆☆