1998年以来、11年ぶりに再読した。記憶が怪しくなっているが、初読時にはかなり好意的な印象を持ったように思う。当時個人的に強い関心を抱いていた援助交際問題に対して、きわめて明快な解答を提出してくれていて、腑に落ちたのである。しかし、今回読み返してみて、ずいぶんと違った印象を持った。
援助交際問題に関する議論それ自体は今でもその鋭さを失っていないように思う。著者はこのように主張する。
本来、家は、洋の東西を問わず弱い子どもや年寄りの避難所(アジール)として公権力の入り込めない不可侵の場所であった。しかし、そこに商品取引の論理が浸透してきた結果、自分の身体を商品とみなして自分の責任(自己責任)で売り買いする自由が声高に主張されるようになった。しかし、商品取引の論理は断じて家のなかで通用させるべきでない。家という社会空間のなかで人間関係を営んでいる以上、自分の身体は自分の勝手で処分するという理屈を持ち出すのは、ルール違反なのである。援助交際問題において親は、外の価値観ではなく、あくまで家の論理・倫理で子どもを裁き、叱らねばならない、と。
わかりやすい議論だ。ただ、この議論が(タイトルにもなっている)「自己責任とは何か」という問題とどう関係しているのかにまで思いをめぐらせると、途端にわからなくなってくる。確かに、この議論においては、援助交際という例を通して自己責任という言葉のいかがわしさが示唆されている。しかし、自己責任それ自体については何も述べられていない。実はどの章の議論もこんな感じなのだ。著者は本書のいたるところで「自己責任なんて虚妄だ」「自己責任という名の無責任が横行している」と告発しているが、結局、「自己責任とは何か」についてほとんど何も語ってくれていない。amazon.co.jpのレビューの多くが本書に対して非常に辛口な評価を与えているけれども、レビュワーの不満はこの点に集中している。
「日本社会の「公私」観からいえば、戦後の日本において、米国は、もっとも強い「公」」(p.196)であり、「自己責任論や規制緩和論のいかがわしさは、実はこのアメリカの影がちらついているからなのです」(p.185)と著者は述べる。ここだけを取り出すと、このいかがわしさが日本社会に固有の病理を象徴しているように思えるが、他方で、著者は「自己責任の名のもとに、弱者への配慮のない政策がまかり通り始めました」(p.12)とも述べている。こちらのいかがわしさは万国共通と言えるのではないか? そうだとすれば、著者は「自己責任論(や規制緩和論)のいかがわしさ」の本質を何だと考えていたのか? 読めば読むほどわからない。
- 作者: 桜井哲夫
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1998/05
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