本書を最初に通読した時の印象はあまり良いものではなかった。ヴァーチャルな世界がリアルな世界を呑みこみつつあるという認識それ自体は決して目新しいものではない。「アニメ」「オタク」「萌え」などの話題が絡んでいるところは今風であるが、そちらのほうも東浩紀の議論で馴染みがある。この本独自の持ち味がよくわからなかった。著者はバンダイのキャラクター研究所長なので、馴染みの議論を「キャラ」*1概念と絡めて祖述しただけのように思えた。
僕はよほどのこと(激しい嫌悪感を覚えることなど)がないかぎり、どんな本も基本的に最低二度は通読することにしている。一読目に気づかず通り過ぎてしまった一節が二読目に突然光を放ち始めることは、これまで幾度も経験してきたことである。今回もそうであった。
5期(現4回生)ゼミで頻繁にとりあげられたテーマである「教育」(とりわけ、「いじめ」)、6期(現3回生)ゼミで頻繁にとりあげられたテーマである「アイデンティティ」――両テーマに着目しながら本書を読むことで、両者を同じ視野の中で捉えることの重要性に少しずつ気づき始めた。
現代の子どもたち・若者たちは、学校という閉ざされた空間の中で、ハイリスクな人間関係のストレスに苦しめられながらも、「いやしキャラ」「いじられキャラ」「あねごキャラ」など特定のキャラを宛てがわれ、それを(時には積極的に)受け入れることで、グループ内での自分の居場所を見つけ、存在価値の証明を行なっている。キャラ化は、お約束のコミュニケーション手法であり、リスクに満ちたコミュニケーションを常に想定内に収めるための技術なのだ、と著者は述べる。
そのキャラは、正確に言えば、グループの健全な維持のために機能するものと言っていい。
特に中学や高校などのクラスにおいては、スケープゴートのように、いじめられキャラの担当はランダムに誰のところにでもやってくる。
・・・そのキャラは極めて安易にグループ内の論理で準備されるにもかかわらず、強くその人間のアイデンティティを規定し、いじめや自殺といった社会問題にさえつながっていくのである。(pp.134-5)
現4回生の5期ゼミ生がまだ2回生だった時、土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち』*2をテキストとして読んだが、そこで指摘されている「現代の子どもたちが潜在的な対立感情を顕在化させないように高度に(時には過剰なまでに)友だち関係に気を遣いあっていること」、「そのような「優しい関係」を維持するために編み出された高度に洗練された交際術」は、あたかも本書の以下の叙述と共鳴し合っているかのようである。
コミュニケーションとは本来、相互の人間関係の強化へと向うはずのものだ。知らない者同士がコミュニケーションを通じて深く関係を構築していくというわけだ。しかし、若者たちのキャラ・コミュニケーションでは既に相互の関係は表層的に成立してしまっている。そして、それ以上の深入りはご法度なのである。
関係はタテに深まることはなく、その場に浮遊したまま、ヨコへヨコへ際限なく広がっていく。一見内面を吐露しあっているかのように見えるブログのコミュニケーションも、いわば「ネタ」であり、それにお決まりのコメントをつけるという関係が際限なく繰り返されるのだ。
今の若者たちが、表層的な関係の友だちを信じられないほど多く持っているのは、まさにそういった関係にゆえだ。ここでは、コミュニケーションそのものがキャラになっているとも言えるのである。(pp.131-2)
「優しさ」の変質をめぐる議論は、土井隆義の他に大平健(『やさしさの精神病理』)や中島義道(『〈対話〉のない社会』)によっても展開されているが、「キャラ化」をめぐる議論と関連づけられることによって、時代を切り取るキーワードとしての「優しさ」の価値はいっそう高まるのではないだろうか。
- 作者: 相原博之
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/09/19
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