乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

ベンジャミン・R・バーバー『〈私たち〉の場所』

新しい市民社会論のマニフェスト! 自信をもってオススメしたい一冊だ。本書を読んで以来、僕は保守主義者&コミュニタリアンであるのみならず市民社会論者でもあることを自覚し、公言するようになった。自らの読書史上・思想形成史上きわめて重要な一冊である。

おそらく僕自身の不勉強にもとづく偏見がいちばんの原因なのだが、市民社会(論)に対する僕の関心は長らく低空飛行を続けていた。「市民社会」を辞書で引くと、「自由・平等な個人が自立して対等な関係で構成することを原理とする社会」(『大辞林』第二版)と書いてある。かつての僕は、「自由・平等・自立・対等な関係なんてフィクションやん。何を夢見てるねん? ナンセンスや」てな具合で、「市民社会」を地に足の着いていない旧式の左翼的言辞としてしか受け取れなかった。それは自分より一世代前の左翼運動に対するネガティブなイメージと結びついていた。

しかし、共和主義思想とビジネス倫理の勉強を進める過程で、市民社会(論)に対するポジティヴなイメージが次第に膨らんできた。共和主義思想の中核概念である「市民」は、言うまでもなく、市民社会論においても中核を占めるものであるし、また、僕がビジネス倫理をめぐる諸問題を考える際にいつも意識している「消費人間」批判という論点――現代の消費社会に生きる子どもや青年が労働ではなく消費を通じてしかアイデンティティも探求を行えなくなっていることの危険性*1――もまた、市民社会論において重要視されてきたことがわかってきた。

本書の内容を、著者自身の言葉にもとづいて、まとめておこう。そもそも市民社会とは何か? 著者はこのように説明する。

市民社会という言葉が示しているのは自由な社会生活という自律的な領域であり、そこでは政府も民間の市場も絶対的ではない。それは、家族、血縁集団、教会、共同体という場で協力し、共通した行為を通じて自分たちのために自ら作り出す領域である。経済的な生産者そして消費者という特定の個人と、主権を持った人民の一員という抽象的な集団との間を媒介する「第三の領域」である(他の二つの領域は国家と市場である)。(p.5)

市民社会は・・・民間市場の同義語ではなく、営利的な自分本位と市場の無作法を防ぐものである。(p.7)

そして、この市民社会は、本書のタイトルにもなっている、「私たちの場所」という語で置き換えられる。孤立した消費者としての「私」ではなく「私たち」の場所。説明するまでもなく、協力・連帯の重要性が含意されている。

大きな政府と営利本位の市場の中間に、私たちの場所がある・・・。(p.13)

このような市民社会を構成するのは、もちろん、市民である。市民社会とは「市民的精神」「民主的な美徳」を有する市民の自発的参加によって支えられている領域である。しかし、私たちは市民としてではなく潜在的市民として生まれてくるにすぎない。「市民的精神」「民主的な美徳」は学習・訓練・鍛練によって初めて得られるものである。このような著者の市民観はトクヴィルの精神を継承したものである。著者は、自らが擁護に努める市民社会論が「市民的共和主義」(p.50)、「古典的な共和主義」(p.60)を復興させたものであることを示唆している。

私たちは市民として生まれてくるのではなく、自由(リバティ)の技能と技芸(アート)を、トクヴィルの言う、現に行われている、非常に骨の折れる「自由の年季奉公」の中で、学ばなくてはならない(だから「リベラル・アーツ」なのである)。(p.86)

その学習(年季奉公)が非常に骨の折れるものになっている最大の理由は、市場の神話が私たちを、連帯にもとづく公共的活動を通じて自己実現しようとする「市民」から、孤立的な消費活動を通じて自己実現しようとする「消費者」へと、簡単に貶めてしまうからである。市民的な「自由とは法律上の人格による権利だけでなく、社会的責任と市民的精神という義務もともなう」(p.93)ものであるのに、私たちはそれを「選択の自由」と履き違え、その結果、「私たち」として行動することを忘却してしまう。

コカコーラやビッグマックを買ったり、それを食べながら『ライオンキング』のビデオを買う自由は、あなたがどのように生き、どういった体制の下で生きるかを決める自由と同じではない。・・・。
市場の神話は私たちが信じるもっとも油断のない神話であるが、それは非常に多くの者がそれを信じているからではなくて、市場のはっきりした見えない束縛は見逃されやすく、たいそう自由に似ていると感じられるからである。行きすぎた消費社会において消費が自発的な活動ではなく中毒になってしまっているときでも、買い物は選択と本当に同義語であろうか。(pp.104-5)

市場はあらゆる種類の「私たち」という志向、「私たち」という行為を排除し・・・。(p.106)

このような現状は明らかに憂うべきである。それでは、消費社会から市民社会を取り戻すために、どのような具体的方策が考えられるだろうか? キーワードは「責任」である。「商業が私的生活と公的生活の非常に多くの側面に影響を及ぼしている社会では、商業は倫理的および市民的雰囲気に責任を持っている」(p.133)のであって、その意味で、私たちは「企業を市民社会の責任ある構成員とする」(p.109)必要がある。こうした著者の主張は、ビジネス倫理における「企業の社会的責任(CSR)」をめぐる議論に対しても、一石を投じる斬新な内容を含んでいるように思われる。*2長い引用になってしまうが、著者自身の言葉に今しばらく耳を傾けてみよう。

・・・責任は、イギリスでは保守党と労働党アメリカでは共和党民主党によって共有されている新しい小さな政府の原理である。すなわちそれは、高校のコミュニティ・サービスのボランティア、生活保護を受けている母親、職のない労働者に、経済と共同体の負担を担うよう求め、また社会悪の根絶を政府に期待しないよう求める政治である。企業と商業にも同じ要求をすべきであろう。責任と権力は手をとり合って進むのである。今日、多国籍企業以上に大きな権力を持っているものはない。そしてどのような団体も責任をともなうようになってきている。市民と政治家は現代の非宗教的な世界において倫理、品性、家族の価値のことで憂慮している。生産物、市場戦略、商習慣がしばしば非常に反家族的である(そう意図したのではないとしても)、そうした企業に責任はある。仕事は輸出され、共同体は息の根を止められ、アメリカ、ドイツ、フランスなどの法律で守られている健康、安全、環境基準も国外企業では巧みに回避されている。人員を削減し、安売りし、接収した子会社を閉鎖する企業には責任がある。また公的規制がないので利益のために国外に出て行く企業には、責任がある。知識と娯楽を分ける境界線が故意にあいまいにされ、映画と音楽には意図的に暴力と理屈ぎらいが注入され、大学と教室が計画的に商業化されるとき、こうしたことを行い、それによって受益者になっている企業には責任がある。
実業家たちは、自分たちは消費者に仕えており、彼らが欲するものを提供しているだけであるとしばしば主張する。何が生産され、どういった価格がつけられるかは、消費者の選択によって決められるよう、個々の消費者に権限が与えられているのであるから、市場は完全に自由の場であると彼らは抗議する。だから責任があるのは、消費者の方である! しかしこの主張は立派な虚構にすぎない。消費者が自分で考えて明らかとなった要求が市場を通して知らされ、そういった消費の要求を満たすために製造され売られていたかつての資本主義経済は、ずっと以前に消えてしまった。それに代わったのが、商品の売り込み、「巧みな言葉」、包装、広告、「科学的」市場取引、これらを通して製品を「必要なもの」にし、生産者の供給を満たすために欲求自体が生産される、ポスト産業社会の経済である。今日の市場は重要と供給の均衡をひっくり返し、人間の基本的な要求に必ずしも関係していない製品の市場を作り出すために生産者は励むのである。こうしたことを行う企業は、彼らが作り出す欲求、彼らが助長する生活スタイル、彼らがせき立てる革新にたいして、重大な責任を持っている。(pp.130-2)*3

企業に市民的責任を果たしてもらうための具体的なアプローチとしては、いわゆる「フェア・トレード」の推進などが考えられているようである。

私たちは企業に対して一層大きな市民的責任を求めることができるが、現在の無責任を迎え撃つために新しい企業精神が生まれるのを待っている必要はない。企業の行動を変えることをめざす「市民消費者協同組合」を形成する市民社会の手立てによりながら、企業のより大きな道徳を養成するため消費者の側でできることがたくさんある。
・・・市民的な消費者の提携という考え方は、「悪しき」生産者を罰するというのではなく、「よき」生産者に報いることをねらっている。・・・消費者たちのかなり多くの人々が、児童労働、不正な雇用状態、(国内で考えると)不当な賃金、こうしたことなしに生産され、また職場の安全と環境を危険にさらすことなしに生産された商品を買いたいと思っている。とりわけ、まさに利益を上げ費用を下げるために、アメリカやヨーロッパの基準が採用されていない国々で、そこに会社を移す企業によって商品が作られている場合、洗練された(市民的な)消費者は、正当な価格で、児童労働によるものでなく、公正な賃金が保証され、職場の安全が保たれ、環境に悪影響を与えていない良質な製品を欲していると言えよう。
・・・この消費者側からの市場へのアプローチは・・・市民-消費者ルールを無視している企業を罰するのではなく、市民の意向を考えてルールを守って営業している企業に利益をもたらすものである。(pp.143-6)

結局、この世界をより良いものにしたければ、私たちが、互いに孤立した「消費者」から「市民」へと変わり、連帯して分厚い市民社会を作り上げていくしかない、という結論に至るわけである。

冒頭でも述べたように、本書は僕に市民社会論者としての立ち位置を自覚させたかけがいのない著作であり、正直なところ、ケチをつけたくないのだが、わずかに感じた違和感を二点だけ指摘しておきたい。

一つには、コミュニタリアニズムへの態度である。著者は、コミュニタリアニズムに対して、その「過剰な親密さ」(p.43)を嫌悪し、それが「全体化の誘惑にさらされている」(p.40)として、否定的な態度を示している。しかし、それは著者のコミュニタリニズム理解が狭いだけであり、僕は市民社会論との両立は可能であると思っている。

もう一つは、失業者、非正規雇用者への態度である。著者は、「時間が自分の集中にある者は潜在的に私たちのもっとも有望な市民である。家の仕事をする人々、退職した人々、効果的な生産体系でもはや「必要とされ」ていない人々は、以前にもまして市民社会に必要とされている」(pp.209-10)と述べ、彼らに大きな期待を寄せている。しかし、彼らが十分な余暇を有しているとしても、彼らがその余暇を「リベラル・アーツ」の修練に費やす(ヘンリー・ソローのように思索し行動する)保証はない。あくまで彼らは潜在的主役の立場にとどまってしまうのではないだろうか。

もちろん、こうした違和感はあれども、僕の本書に対する高い評価はまったく揺るがない。

“私たち”の場所―消費社会から市民社会をとりもどす

“私たち”の場所―消費社会から市民社会をとりもどす

評価:★★★★★

*1:この論点については、この「乱読ノート」でもとりあげてきたいくつかの書物において指摘されてきた。宮本みち子『若者が《社会的弱者》に転落する』→旧「乱読ノート」2004年10月 http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nakazawa/reading2004.htm / 内田樹下流志向』→http://d.hatena.ne.jp/nakazawa0801/20090322

*2:最近耳にすることの増えてきた「企業市民」という理念・考え方と「企業の社会的責任」論との微妙な(?)関係については、さしあたり、佐藤方宣「企業とビジネス」(同編『ビジネス倫理の論じ方』ナカニシヤ出版、2009年、第1章)を参照されたい。

*3:後半の叙述には、ガルブレイスの「依存効果」説からの影響が感じられる。