乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

篠原一『市民の政治学』

バーバー『〈私たち〉の場所』 *1を読んで、市民社会(論)への関心が一気に膨らんだ。もっと勉強したくなり、そこでたまたま手に取ったのが本書である。

著者はヨーロッパ政治史研究の重鎮の一人である。本書は市民社会を強化するための新しい市民参加のあり方を、欧米の最新の議論を紹介しながら、わかりやすく解説したものである。

僕が強く興味を持ったのは、 古典的な市民社会論と区別された新しい市民社会論の概要を紹介した第3章である。スミスやヘーゲルに代表される古典的な市民社会論は国家と市民社会の二領域論を採用していた――市民社会には経済(市場)機能が含まれた――が、資本主義の発達にともなって、経済社会(企業)の権力性(利益と効率による支配)が国家権力と同様に市民的自由を脅かすものであることが認識されるようになり、国家と経済の癒着が問題視されるようになった。その結果、新しい市民社会論においては、国家(政治システム)・経済社会(経済システム)・市民社会という三領域論が採用され、三領域が相互に接合しながらも、市民社会が優位にたつべきだ、と考えられるようになった。*2

このような新しい市民社会論の先駆としてイタリアのマルクス主義グラムシの議論が紹介されており、個人的に強い興味を持ったが、残念ながら、この点については軽く触れられただけである(pp.96-7)。本書のサブタイトルが「討議デモクラシーとは何か」と題されていることから明らかなように、本書の主題は「新しい市民社会論に関してもっとも大きな影響力をもった」(p.102)ハーバーマスによって説かれた討議デモクラシーという考え方を紹介することにある。

1990年の東欧革命が発生する前、ハーバーマスは、国家から独立した市民社会は存在するけれども、政治と経済の癒着が進むなかで、市民的公共性は弱体化していく、と市民社会の未来を否定的にとらえていた。しかし、東欧革命を通じて権威主義体制を打倒できる市民社会の強靭さを再認識したハーバーマスは、新しい市民的公共性を生み出す討議デモクラシーへの期待を積極的に表明するようになった。

彼は1962年に『公共性の構造転換』という著書を書いて、学界の注目を浴びた。ここで彼は18世紀に市民的公共性が国家的公共性と対抗しながら、いかにして形成されてきたかをのべる。コーヒー・ハウスや読者クラブの活動や当時ようやく発達してきた新聞・雑誌などのメディアによって、まず文芸作品について議論し合う文芸的公共性がうちたてられる。さらに政治論議を通して公共を独占してきた国家から政治的公共性がとり戻され、市民的公共性が形成されたとする。いわゆるパブリックの誕生である。
こうして国家から遊離した市民社会が登場するが、さきにのべたように歴史の進行とともに政治と経済の癒着がすすみ、これまで国家と社会との間の緊張関係の中で展開されてきた市民的公共性が次第にとりくずされていく。ハーバーマス自身の言葉を使えば、市民社会は権力の面で中立化された公共圏であるという外観を放棄しなければならなくなった。まだ同時にかつては私生活の中心であった親密圏も周辺におしやられ、家族はますます私的になり、労働と組織の世界はますます公的になって親密圏の分化がおこる。さらにマスコミなどの発達にともない、かつての公共的論議は役割を喪失し、文化を論議する公衆が文化を消費する公衆となってしまった、という。
このようにして自由主義的要素をもった市民的公共性は変容し、近代のはじめに形成された市民的公共性は力を喪失する。当時の彼のいう市民的公共性の構造転換は・・・ペシミスティックな分析であった。
1990年東欧革命が発生し、権威主義体制を打倒することに貢献した市民社会の役割が再認識されるようになったとき、ハーバーマスはこれまで17刷を重ねてきた『公共性の構造転換』を書き直して、新しい版を出して欲しいという出版社からの要望を受けた。しかしもし修正をすると全部を書き直さなければならないことを知って、長い序文を書くことにかえた。いまやハーバーマスは「新しい市民社会」への構造転換に着目するようになり、市民社会とそれにもとづいた協(討)議デモクラシー(deliberative democracy)への期待がふくらんでいった。(pp.103-5)

そして、第5章において、欧米で制度化されつつある討議デモクラシーの実例――討議制意見調査(DP)、コンセンサス会議(CC)、計画細胞、市民陪審制、多段式対話手続き――が紹介される。

・・・1990年前後から、参加だけでなく、討議の重要性が再認識され、とくに政治の世界の討議だけでなく、市民社会の討議に裏づけられない限り、デモクラシーの安定と発展はないと考えられるようになった。これが討議デモクラシーである。・・・。
・・・討議デモクラシーの制度化はこれからの政治にとって欠かすことのできない課題である・・・。(pp.156-7)

討議デモクラシーの考え方に従えば、市民社会においてなされた「議決」が政治システムにおいてなされた決定に直接的な影響を与えることはそれほど重要視されておらず、むしろ、市民が討議を通じて問題を発見していくこと――あるいは(原子化・断片化・孤立化に抗して)問題を個人的レベルでなく社会的レベルで知覚していくこと――に意義がある、とされる。具体的な制度としていかなる形をとるにしても、討議デモクラシーの制度がもとづく原則は、以下の原則にもとづかなければならない。

・・・十分な討議ができるように、まず、正確な情報が与えられるだけでなく、異なる立場にたつ人の意見と情報も公平に提供されるよう配慮しなければならない。第二に、討議を効果的に行うようにするためには小規模なグループでなければならず、できれば、グループの構成も固定せず、流動的であることが望ましい。第三に、討議をすることによって自分の意見を変えることは望ましいことであり、頭数をかぞえるためだけの議論になってはならない。
このような大原則を実現するため、制度化に当って種々工夫がされているが、その前に、集められたグループが社会全体の縮図を示すものでないならば、討議自体の意味が半減してしまう。中央政府自治体政府によって任命される審議会はしばしば政府に都合のよい人を集め、恣意的グループになっていることが多い。こういう不公平さを取りのぞくため、討議デモクラシーの制度化に当っては、ランダム・サンプリング(無作為抽出)の方法がとられ、その代表性ないし包含性と透明性を確保することにしている。(pp.158-9)

それでは、市民社会を支え、討議デモクラシーを成立させる「市民」とはどのような存在なのか? 想定されている市民イメージがあまりにも理想的で完全なものであれば、それに重さ(負担)を感じて討議を忌避する人々が続出するのではなかろうか? 終章「市民の条件」ではこうした懸念に対する筆者なりの解答が示されている。率直に言って、驚きの解答であった。筆者の思考の柔軟さがうかがえる。

さて、討議デモクラシーまでいくと、次にでてくるのはどうしても、市民のもつ能力の問題である。そもそも市民というものに対して、どのような基準を設けるべきであろうか。ダールは1992年の論文のなかで、「それなりの市民(アデクウェイト・シティズン)」という概念を打ちだしている。これは、公共善を認識してそのために行動するというイメージをもつ古代のよき市民でもなく、また近代的個人主義の上に立ってそれぞれの利益を追求し、その利益追求の予定調和によって公共性が成り立つと考える近代のよき市民ともちがう。現代においては社会の規模の大きさ、問題の複雑さ、マスコミの操作性などを考えると、完全な判断のできる市民を期待することは困難であるが、そういう点については専門家も同様である。そこで、あまり完全性を求めないで、「それなりの市民」という基準をたてるべきだという。
民主社会においては、「それなりに良い市民(グッド・イナフ・シティズン)」がふえていけばよいのであって、完全な市民というイメージを想定したら、市民などは存在しなくなってしまう。こういう市民は、まず機会ごとの(オケーショナル)、断続的な、さらにパートタイム的市民であればよい。つまり問題の発生したときに政治に参加し、またそれは継続して行うものでなくともよく、また参加するときもパートタイム的であればよいということであろう。(pp.197-8)

以上、本書の内容を紹介してきた。全体で200ページ程度の小著であるが、紹介がこれだけ長大になってしまったのも、本書の議論があまりにも豊かで、省略するのが忍びなかったからである。一人でも多くの「それなりの市民」に読んでもらいたい名著である。

市民の政治学―討議デモクラシーとは何か (岩波新書)

市民の政治学―討議デモクラシーとは何か (岩波新書)

評価:★★★★★

*1:http://d.hatena.ne.jp/nakazawa0801/20091012

*2:バーバーの議論がこの新しい市民社会論を踏まえて展開されていることは明らかである。