乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

勢古浩爾『「自分の力」を信じる思想』

5期ゼミ2006年度秋学期最初のテキスト。「力」をテーマにゼミをしたいと言っていたFさんが自分で見つけてきた。

最初の読後感は「よくこれだけ自分と同じことを考えている人がいるもんだなぁ」。僕自信の人生哲学をそのまま活字にしてくれたような本だ。僕はことあるごとにゼミ生に「力を出し切れ。出し切ること自体に意味がある」とか「無理をしろ。ちょっとやそっとじゃ人間は死なないようにできている」とか言い放って鼓舞しているのだが、本書にはそのものズバリの言葉が幾度も登場する。

今や「自己責任」「実力主義」「勝ち組・負け組」「格差」といった露骨な言葉が新聞・雑誌の紙面を当たり前のように賑わわせている。この厳しい時代を生き抜くための「自分の力」はどうすれば手に入れられるのか? 本書は、自分にできることなら何に対しても「まじめ」に「一生懸命」に「努力」し「頑張る」*1ことによってでしかない、と力説する。

「自分の力」を尽くそうとすることはそれだけで意味がある。極論すると、それしか意味がないといってもいい。(p.7)

「やりがいがない」とか、これは「自分のしたいことではない」などという裏には、自分はそれ以上の人間なのだという実質のともなわない肥大感がある。運転の練習もしないうちから、車を運転できないといっているのと変わらない。「やりがい」などと一丁前なことをいうまえに、徹底的になにかをやってみることである。(p.56)

「自分の力」をつけるには、「自分」に負荷をあたえ、みずからが負荷を負うことである。筋肉は鍛えなければ強い筋肉にはならない。「鉄は熱いうちに打て」も「苦労は買ってでもせよ」も、みずからが積極的に負荷を負え、ということ以外ではない。(p.187)

「負けてもいい」と考えるのではなく、人生や生活の「勝ち負け」というとらえ方じたいを無化するのである。・・・真実は依然としてこうである。「自分の力」をだしきれば、人生に「勝ち負け」はない。(pp.192-4)

本書の主張それ自体に斬新さはないかもしれない。単なる根性論やきれいごとでしかないと感じる読者もいることだろう。しかし、少なくとも僕にとっては、「自分の力」を所有する努力を放棄した者に対する描写がとても印象深く、単なる根性論やきれいごと以上の説得力と魅力を本書に与えているように思われた。

力のない者はかならず怨恨のなかに逃げ込み、陰険を手に入れ、だれかに依りかかる・・・。カッコ悪くても、迫力のある「まじめ」になればいいのである。・・・楽に生きている人間にはどんな迫力もない。(pp.149-50)

もちろん僕は「迫力」のある「まじめ」を目指す。目指す以前にそもそもそういう無様な生き方しかできないのだけれど。

「自分の力」を信じる思想 (PHP新書)

「自分の力」を信じる思想 (PHP新書)

評価:★★★☆☆

*1:僕は言葉として「頑張る」よりも「踏ん張る」(斎藤孝『子どもたちはなぜキレるのか』)のほうが好きだ。「力」が経験を通じて「蓄積」(p.56)されていく様子がより鮮明にイメージできるから。