乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

城山三郎『官僚たちの夏』

組織の中の人間の生々しい姿を描き続けた経済小説の第一人者城山三郎氏が去る3月22日に亡くなられた。79歳。東京商大(現一橋大)卒業後、愛知学芸大(現愛知教育大)の教員(景気論・経済原論担当)を経て、小説家へと転身した。

かつて記したことがあるのだが*1、亡き僕の父は中学しか出なかったにもかかわらず、経済学部を出た息子が舌を巻くほど、経済について博識であった。本の虫だった父は経済知識の多くを城山小説を通じて学んだようだ。今でも実家の本棚には父が遺してくれた数々の城山作品――『官僚たちの夏』『落日燃ゆ』『臨3311に乗れ』『零からの栄光』『価格破壊』『鮮やかな男』『素直な戦士たち』『今日は再び来らず』『真昼のワンマン・オフィス』『ある倒産』等々――がずらりと並んでいる。僕が進学先に経済学部を選んだのは父からの影響が非常に大きい(父自身は僕に法学部を望んだ)が、そうであるなら城山三郎は経済学徒としての僕の祖父にあたると言ってよいだろう。追悼の意味をこめて、代表作の一つである本書を手に取った。

舞台は1960年代、高度成長期。日本経済の未来のために奮闘する通産キャリア官僚たちの姿が描き出されている。省全体をあげて取り組んだ「指定産業振興法」の立法化が政界・財界の猛烈な反対で頓挫していく件が、本書の筋書きの背骨である。立法の具体的プロセスについてまったく無知だった僕は、「こうやって法律はできていくのか!?」と感心するばかりで、本当に勉強になった。また、キャリア官僚とノンキャリアとの関係、事務官と政務官との関係、省庁間のなわ張り主義、(今話題の)天下りのシステムなどについても、具体的な場面を通じて多くを知ることができた。

主人公の風越信吾をはじめ登場人物の多くが、私利私欲にとらわれずに天下国家のためにわが身を捧げんとする、非常に気高い存在として描かれている。自分のしていることは必ず国のためになるという強烈な自負は鼻持ちならないが、そうした高慢さと背中合わせの高潔さが清々しく魅力的である。まさしく「ノブレス・オブリジュ(高貴な使命感)」なのである。著者には(未読だが)『男子の本懐』という作品がある。そのタイトルが象徴しているように、著者は日本人男子のあるべき姿(失われつつある生き方)を読者に伝えようとしている気がしてならない。*2

午後十時少しすぎ、風越が牧と庭野を左右に従えて、部屋に入ってきた。厚い胸をそらせて、部屋の中央に進む。仁王立ちになると、一度瞑目してから、全員の顔を見渡して言った。
「諸君、残念ながら、振興法は審議未了で廃案となった」
最悪の結果であった。継続審議でもいいし、審議した上で葬られるのなら、まだしもあきらめがつく。それを一瞥さえくれずに投げ返してしまうとは。あまりにむごく、また官僚をばかにしたあしらいではないのか。
部屋の隅から、「ちくしょう」という声がきこえ、ついで、事務官たちは、口々に嘆き、あるいは罵りはじめた。口惜し泣きに泣き出す者も居る。
ビールの栓が抜かれると、部屋の中はいっそう騒然とし、荒れた空気となった。
「局長、残念です」
「おやじさん、口惜しい」
そういう声の中で、風越は「おう」「おう」とうなり、ビールをあおり続けた。(p.263)

どんな世界にもその世界なりの掟があるだろう。本音と建前の使い分けがあるだろう。それは十分に理解しているつもりだが、事務官である官僚にこれだけ強大な権力が実質的に付与されている現実は、やはり問題なしとは言えない。主人公の風越は「人事がすべて」とばかりに人事に猛烈なエネルギーを注ぐ。人事権は形式的には大臣にあるにもかかわらず、実質的には官僚が掌握している。大臣が省内で規定路線とされている人事に変更を加えようとした時の官僚たちの抵抗の根強さ(pp.114-123)は、それが天下国家を案じるがゆえであっても、煎じ詰めれば「私たちのほうが優秀なのだから、私たちが決めた人事こそが天下国家に最大限寄与する」という傲慢な思考に基づくものである以上、とても共感できるものではない。唯我独尊そのものだ。

高度成長期から半世紀が過ぎようとしている。官僚の世界は変わったのか、変わっていないのか? 僕はそれを知ることのできる立場にないが、もし本質的に変わっていないのであれば、僕が住み続けられる世界ではない。大競争時代の昨今、大学の世界で生きるのはかなり大変だが、それでも官僚の世界よりははるかに自分に合っていると思う。

本書の初版が刊行されたのは昭和50年で、昭和17年生まれの父は当時33歳。7歳の息子(僕のことだが)、5歳の娘を持つ父親として、また大衆食堂の経営者として、どんな気持ちで本書を読んだのだろうか? とても興味があるのだが、残念ながらそれを本人に尋ねる機会は永遠に失われてしまった。

官僚たちの夏 (新潮文庫)

官僚たちの夏 (新潮文庫)

評価:★★★★★

*1:http://d.hatena.ne.jp/nakazawa0801/20060215

*2:ただ、男の世界へのこだわりゆえであろうか、著者の描く女性は概して魅力に乏しく印象も薄い。脇役ですらない。