乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

日本経済新聞社編『働くということ』

2003年4月から2004年8月まで日本経済新聞紙上で連載された「働くということ」を、加筆・修正・再構成を施して一冊の本としてまとめたものである。豊かな社会に突入した日本では、「生活の糧を得るため」という旧来の労働観は過去のものになってしまった。働く意味は多様化し、それとともに働き方――より正確には、働くことを生きる意味に繋げていく方法――も多様化している。本書はそのように様変わりした日本人の働き方を現場で働く人々の生の声によって描き出そうとする。

もともと新聞記事なので、文体はきわめて簡潔で読みやすいが、悪く言えば、素っ気無く、無味乾燥である。どの記事も1ページ余りで終わってしまうので、深い洞察を期待することはできない。大企業のみならず中小企業も登場するが、登場人物の大半は中流以上で、一度は成功を手にした人、あるいは未来の成功を確信する自信家で、ヴェンチャー・スピリットに満ち溢れている。派遣社員も登場するが、スキルを売り物にできる「勝ち組」である。ワーキングプアの苦悩は描かれていない。意図的なのか? あるいは日経の記者の視野には入っていないのか? 急速に変貌する企業社会の影の部分への義憤がほとんど見られずで、これでは「企業の太鼓持ち新聞」(amazon.co.jpの読者レビューより)と批判されても仕方があるまい。穿った見方をすれば、「就社の時代は終わったよ。自己責任の時代だよ」という企業側のメッセージ――社会保障負担を軽減できるという点において企業サイドに都合のよいメッセージ――を企業に代わって発信しているにすぎないのではないか? 一つの主義主張を持った本としてではなくデータブックあるいはカタログとして割り切って読むほうが正しいかもしれない。

もっとも「読んで損をした」とまで言うつもりはない。とりわけ印象に残ったのは、(1)団塊世代の大量退職を前に、技能の伝承に危機感をつのらせる企業の姿、(2)「歯車」であることを拒否し、組織の「しがらみ」を断ち切って「自立」を獲得した者が、他者との「つながり・連帯」に飢えている姿である。この二つは人間と組織の関係の本質を考える上で非常に重要な示唆を与えているように思う。

また、玄田有史が説く「中間管理職の復権」はとても興味深く拝読した。

情報技術が発達し、トップと現場が直接つながるようになったことで、中間管理職の不要論が一時、強まった。しかし、現実は逆だった。顔と顔を合わせて部下の悩みを聞いたり、上司の考え方を伝えたりする役割の重要性などはむしろ高まっている。生え抜きでも中途入社でもいいが、つなぎ手としての中間管理職の元気を取り戻すことも必要だ。上と下との板挟みになってじたばたする中間管理職の本来の仕事に誇りを取り戻すことも大事だ。(p.31)

教師って永遠の中間管理職だな。勤務先の大学の経営体としての効率性の論理と学生たちとの非効率な(!)つきあい*1との間で「じたばた」と苦悩する中間管理職のような教師。それがまさしくここ数年の僕の姿なのだ。割り切って自分を教育者ではなく研究者として自己規定すれば、かなりの程度この苦悩から解放されるだろう。しかし僕にはそれができない。顔と顔を合わせる非効率なつきあいをやめてしまったら、僕は僕でなくなってしまう気がする。そのジレンマが悩ましい。

なお、本書は現在文庫化*2されている。

働くということ

働くということ

評価:★★☆☆☆

*1:もっとも、辻信一が主張するように、教育とは本質的にスローなものである。http://d.hatena.ne.jp/nakazawa0801/20051016

*2:asin:4532193613