乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

齋藤孝『スラムダンクな友情論』

井上雄彦のバスケットマンガ『スラムダンク』。著者自身が「心から惚れこんでいる」と告白し、「古典として読み継がれるべき作品」と断言までするこの名作マンガをはじめとして、古今東西の文学・マンガ・映画、さらには藤子不二雄ら実在の人物(有名人)のエピソードなどを素材にして、(互いに高めあうクリエイティブな関係としての)真の友情関係の大切さを若い読者のために――おそらく中高校生のために(ルビがふってある)――やさしく説き明かしている。

友情論は教育論でもある。教育とは、本来、アイデンティティを育てるものだが(p.88)、そのアイデンティティを磨き合う関係こそが真の友情関係であり(p.102)、それゆえ両者は表裏一体の関係にある。著者はそこまで言っていないが、わかったようでわからない教育標語「生きる力」の内実は、本書に即して、「ユニークな(かげがえのない)関係」をつくる力(p.38)と考えればよいのではないだろうか。

クリエイティブな関係を同世代間のそれに限る必要はない。「阪井先生の教師としての愛情が少年の「アイデンティティ」を育てた。ふつう、こういう関係は友情とはいわないかもしれないけど、このふたりの間には、友情と呼べるものが通じていたと僕は思う」(p.91)。師弟関係ですら友情関係でありうる。このように考えると、本書はプラトン『饗宴』のエロス論をやさしく噛み砕いたかのように思えてくる。エロスとは「創造性への愛」なのだから。

クリエイティブな関係をライバル関係に限る必要もない。正反対のスタイルは刺激しあう。山本周五郎『さぶ』において、鋭い栄二とテンポの遅いさぶという対照的な二人はそのような関係として描かれている。与平さんという人がこう言う。「栄さんは、きっと一流の職人になるだろうし、そうい人柄だからね、尤も栄さんだけじゃない、世の中には生れつき一流になるような能を備えた者がたくさんいるよ、けれどもねえ、そういう生れつきの能を持っている人間でも、自分ひとりだけじゃあなんにもできやしない、能のある一人の人間が、その能を生かすためには、能のない幾十人という人間が、眼に見えない力をかしているんだよ」(p.205)。この一節を読んだ時、僕の脳裏にすぐさま浮かんだのは、高橋伸夫成果主義批判である。与平流の人間関係観は、高橋経営学の根底に横たわっているものだ。『虚妄の成果主義』の「おわりに」を読んでいただきたい。あまりの酷似に驚くはずだ。

ビートルズ「ヘイ・ジュード」のレコーディングを例に引きつつ、「クリエイティブな関係には、「偶然の出来事」を、あとから見ると「必然的な作品」に組みこんでしまう力がある。・・・偶然の出来事を必然にできるのは、いっしょのものをつくる人間に、共通の基盤がしっかりとあるからだ」(p.109-111)と著者は述べるが、この言葉にもいたく感動した。僕の学生時代の演劇経験はまさしく実証例であったし、今大学教員として取り組んでいるゼミ運営においても、それがそのまま当てはまる場面があまりにも多いからだ。超学生主体ゼミを銘打っている僕のゼミが、学年ごとのカラーの大きな差異にもかかわらず、どの学年も「中澤ゼミらしい」と言ってもらえるのは、偶然の出来事を必然にできるだけの基盤を共有できている――もちろん最初から共有できているわけではなくて、ゼミ活動を通じて少しずつ育まれるものなのだが――からだと思う。

(安手の)ナショナリズム覚醒剤になぞらえた第2章には少なくない批判が寄せられている(amazon.co.jpの読者レビューを参照のこと)が、僕はさほど大きな違和感を覚えなかった。そんなことが些細なことに思えてくるほど、共感できる部分が多かったのだ。齋藤さんのご実家は家具屋だったらしい(p.43)。なるほど。きっと、そのせいだな。僕と同じく商売人の息子。商売人意識を共有していたわけだ。

スラムダンクな友情論 (文春文庫)

スラムダンクな友情論 (文春文庫)

評価:★★★★☆