乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

鷲田清一『だれのための仕事』

現代日本を代表する哲学者(阪大次期総長)による労働論。本書の内容を僕なりにまとめるならば、以下のようになるだろうか。

現代社会は、プロスペクティブ(前望的)な時間意識、および、効率性と生産性の論理が隅々まで深く浸透した《労働社会》である。

わたしたちはなぜ働くのか? しばしば耳にする問いである。多くの人びとが、生活するため、自分や家族の豊かで安らいだ将来の生活のためといった理由を持ち出すだろう。しかし、これは未来の幸福のために現在を貧しくする論理である。現在おこなっていること、進行していることは、目的実現のために必要なもの(手段)として消極的な位置づけしか与えられていない。現在の生の輝きはそこにはない。

現在の生の輝きを余暇に求めても、事態は本質的に変わらない。わたしたちは余暇の時間でも「効率よく遊ばなければ」という脅迫観念に囚われている。こうした余暇の「現在主義」的性格が典型的に表現されているのがファッション現象である。わたしたちは「新しさ」「変化」を欲望し、そうしたイメージを消費することによって、自己が何ものであるかを演出しようとする。このようにして、本来の自分=「じぶんらしさ」に近づこうとするが、欲望が同一の物語によって編まれている以上、近づこうとすればするほどそれは遠ざかってしまう、というアイロニカルな結末が待っているだけである。

それではポスト《労働社会》における労働のあり方をわたしたちはどのように展望すればよいのか? わたしたちが労働に、人生に、よろこびを取り戻せるのだとすれば、そのよろこびの本質はどのようなものだろうか? 「じぶんらしさ」を発見することによろこびを感じるのだろうか? おそらくそうだろう。しかし、この場合、「じぶんらしさ」の意味を誤解してはならない。

「じぶんらしさ」などというものを求めてみんなはじぶんのなかを探しまわるのだが、ほんとうにわたしたちの内部にそのような確固としたものなどあるはずもない。・・・〈わたし〉というものは他者の他者としてはじめて確認されるものだ。(p.154)

これこそ著者がことあるごとに繰り返し発信しているメッセージである。そもそも「なぜ働くのか」という問い方それ自体が誤っていたのだ。「だれのために働くのか」つまり「だれと関係を結ぶのか」が、じぶんらしさを、労働すなわち生の充実を決めるのだ。

他者との関係のなかで編まれていくこのような〈わたし〉のストーリーが、仕事のよろこびに欠かすことのできない達成感というものを裏打ちしている・・・。
この仕事をおこなうこと、そのこと自体が楽しいという、仕事の「内的な満足」は、このように(未来の目的とではなく)現在の他者との関係と編みあわされている。(pp.176-7)

働くことは生きることであり、人生は旅である。旅のたのしみは、目的地にたどり着くことではなく、旅の途上でであった一人一人、通り過ぎる風景の一つ一つにある、ということだろう。この場合、廻り道や道草もが意味をもつが、それらが効率性と生産性の論理の対極にあることは言うまでもないだろう。

僕は著者のような労働の捉え方に全面的に賛成したい。トム・モリス『アリストテレスがGMを経営したら―新しいビジネス・マインドの探究』、高橋伸夫虚妄の成果主義』、山崎正和社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)』なども、本書とその労働観を大枠で共有しているように思われる。僕の専門領域との関連では、アダム・スミスが次のような言葉を残しているのが印象深い。本や詩を読んで聞かせるという行為がルーティン・ワークである状況を考えてみよう。それがルーティン・ワークであるにもかかわらず働き手によろこびをもたらしてくれる場面を見事に描写している。

われわれが、ひとつの本や詩をたびたび読んだために、自分だけでそれを読むことには、もはやなんの楽しみも見出しえないときに、われわれはなお、それを仲間にたいして読むことに、快楽を感じうるのである。その仲間にとっては、それは、新しいもののもつすべての長所をもっている。われわれは、それが自然にかれのなかにはかきたてるが、もはやわれわれ自身のなかにはかいたてることができない。驚きと驚嘆にはいりこむ。われわれは、それが提供するすべての観念を、それらがわれわれにとって見えるようにようにではなく、むしろそれがかれにとって見えるように、考察するのであり、そしてわれわれは、かれの楽しみへの同感によって楽しまされるのであって、こうしてかれの楽しみが、われわれ自身のそれを活気づけるのである。反対に、かれがそれをおもしろがったように見えないならば、われわれはいら立たざるをえないだろうし、もはや、かれにたいしてそれを読むことに、快楽を感じえないだろう。(『道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)』、pp.37-8)

だれのための仕事―労働VS余暇を超えて (21世紀問題群ブックス (9))

だれのための仕事―労働VS余暇を超えて (21世紀問題群ブックス (9))

評価:★★★☆☆