乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

齋藤孝『発想力』

週刊文春』の連載を一書にまとめたもので、1編6ページのエッセイが29編収録されている。発想力を鍛えるための指南書ではなく、(結果的に失敗したアイディアを含めて)著者が日々の生活や仕事の中で思い浮かんだアイディアの数々を惜しみなく披露してくれている。「へぇ、こんな考え方(やり方)があったんだ」と感心させられるあたりは、養老孟司さんのエッセイを読んでいる時の感じに近いのだが、「考え方」よりは「やり方」に重きが置かれており、その点で著者はやはり現場の人である。

「就職難におみそシステムの復権を」と「専門は身体論です」は文句なしの名品だ。後者から僕の心にひときわ強い印象を残した件を紹介したい。

私たちが身体感覚や生理的な感覚だと思っているものも、実は文化的なものだったりもする。『「ムカツク」構造』(世織書房)を書いたときに、ムカツクという言葉について十代の人にアンケートをしたのだが、その中で頻繁に出てきたのは、「生理的な嫌悪感を感じるときにムカツク」というものであった。生理的嫌悪感と言われてしまうと、もうどうしようもない。それ以上はつっこむことができない聖域のように思われがちだ。
しかし、この生理的嫌悪感というものも、実にあてにならない。
たとえば、今は男に胸毛があるだけで生理的な嫌悪感の対象になる。しかし、かつて長嶋茂雄の胸毛は一種のセクシュアルな魅力として認められていたし、007シリーズのときのショーン・コネリーの胸毛もまた、世界的にセクシーという評価を得ていた。
ところが80年代頃からか、急速に毛深い男は人気がなくなりだした。これはきわめて文化的な現象なのだが、嫌っている当人たちにとっては「生理的嫌悪感」の対象となってしまう。
身体感覚を絶対視するのは危険だ。
身体の感覚もまた文化によって影響を受けている。自分の「生理的」感覚を価値観の最大の根拠にしてしまうと、文化的にまったく違う人たちの感覚が理解できなくなってしまう。人間理解の幅が狭まるということは、進歩ではなく退歩だと思う。(pp.102-3)

これも一種の「実感信仰の陥穽」だな。経済学を学ぶ場合でも、生活実感を最大の根拠にしてしまうと、かえってそれが正しい理解を妨げる場合が多いのだ。

中野民夫『ファシリテーター革命』*1に劣らず、授業を面白くするための技法(ネタ)が満載されている。さっそく現場(「経済学ワークショップ」やゼミなど)で試してゆくつもり。「喝采ゲーム」(p.32)、「全然違う4つのマンガのコマを組み合わせて一つのストーリーを作る」(p.61)、「ウォーキング・イングリッシュ」(p.61)、「(間の感覚を磨く練習としての)点回し読み」(p.91, 182)、「足指当てゲーム」(p.95)、「不在者を認知する力を鍛えるゲーム」(p.114)、「斜めのポジショニング」(p.138)、「マッピングコミュニケーション」(p.146)、「ウォーキングゼミ」(p.174)、「暗誦ビンゴゲーム」(p.182)等々、いやぁ、本当に参考になる。そして、いかに自分の工夫が足りなかったか(漫然とやり過ごしてきたか)を反省させられる。こうした技法(ネタ)の一つ一つに対して一冊の本が書かれるから、齋藤さんの著作は膨大な数にのぼってしまうわけだな。

私の場合は、疲れ切るとなぜか古本屋に入ってしまう。喫茶店に入って休んだり、さっさと家に帰って寝てしまえばいいものを、朦朧としながらも古本屋で本をあさる。しかもハシゴしてしまう。大型の新刊書店では情報が多すぎて疲れる頭も、こじんまりとした小補填だとなぜか和らぐのである。(p.124)

まったく同じ趣味、僕にもあります。

発想力 (文春文庫)

発想力 (文春文庫)

評価:★★★★☆