乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

岩井寛『森田療法』

著者は1986年にガンのために55歳の若さでこの世を去られた精神医学者である。本書は生前最後の作品で、口述筆記によって著された。すでに著者の身体は末期ガンに侵されており、腫瘍が全身に転移して神経を圧迫し、下半身はまったく動かなくなっていた。左耳の聴覚は失われ、両眼は失明状態であった。しかし、知性はまだ覚醒している。思考する自由はまだ残されている。与えられた人生の事実を「あるがまま」に認めたうえで、残された「思考する自由」をフルに生かして、「人間としての尊厳」を守り通してゆきたい。そのような強靭な精神力が本書を生み出した。本書が、森田療法についての一般向け解説書でありながら、その全編に独特の緊張感を湛えているのは、こうした成立背景によるところが大きいように思う。

もともと著者は早稲田大学大学院で西洋美術の研究に携わっていたが、神経症的な悩み(引っ込み思案)から脱することができず、三十歳を目前にして精神医学へと進路を転じた。その転身にあたって彼の相談に乗ったのは、森田正馬の第一の高弟・高良武久であった。慈恵会医科大学の卒業後、高良の経営する病院に週に一、二回通い、入院患者に森田療法を実践しながら研鑽を積んでいった。そんな著者を森田の孫弟子と呼んでもよいように思う。

森田療法森田正馬によって創始された神経症の治療法で、その中核的理念は「生の欲望」と「あるがまま」である。渡辺利夫神経症の時代』のレヴュー*1にも書いたが、神経症とは決して病気でない。人間であれば誰もが持っている「生の欲望」が人一倍強く、「よりよく生きたい」という願望が人一倍旺盛な人は、「かくあるべし」という一種の理想主義に縛られて、「よりよく生きられなかったらどうしよう」という不安をつのらせ、「かくある」現実から逃避してしまう。こうした人は「神経症を患っている」と言われるけれども、不安は人間の誰の心にも存在する心性であり、異常ではないから、除去する必要はない。向上心(几帳面さ、責任感etc.)と不安は同じコインの表と裏なのだから、一方だけを見てもう一方を見ないのはそもそも無理である。その無理を実行しようとするから、現実への適応が拙劣になり、他者への不信感、自分への劣等感といった一種病的な症状として顕現してしまうのだ。したがって、「あるがまま」とは、逃避的な欲望に忠実であることではなく、人間として自己実現したいという欲望、生の欲望を全うするために、不安に突入して直面し、予期不安が仮想の不安であったことを自ら確かめることなのである。

神経症者は、人間にとってよき欲望を一方的に求め、悪しき欲望を否定し去ろうとする傾向がある。それは一見良心的に見えるが、実は、人間の欲望の真実を認めない、偏った思考にすぎない。
人間誰しもはじめて大勢の前でしゃべるときは、あがってしまって、その場から逃避したくなるのが普通である。また、はじめて飛行機に乗って、地上を舞い立つ時には、果たして地上の人になれるかどうか、心に不安を抱くのが普通である。(p.43)

神経症者はそうした不安を「あってはならないもの」「除去すべきもの」と決めつける。そのために不安がいっそう強く意識されてしまい、不安が肥大化してしまう(精神交互作用)。不安に「とらわれ」てしまう。

森田療法の「あるがまま」はそのような「とらわれ」から脱して精神の「自由」を取り戻すための技法である。理不尽な現実への屈服・諦念を説いているのではなく、人間らしい積極的な生のあり方を説いているのである。岩井の壮絶な最期は、そのような森田療法の人生観・世界観を実践するものであった。

精神療法の治療者というものは、非常に恵まれており、被治療者にこうこうだと指摘するところは、全部自分を納得させるための言葉として戻ってくる。したがって、常に、自己治療、自己治癒が行われているのである。苦しいことがあって逃避をしたいと考えるときに、もう一歩引き下がって自分の本心を考え、現実が苦しいから逃げ出すのと、苦しいけれども目的を果たそうとするのと、どちらが本当に考えかと自分に問いかけてみる。そのときに、やはり苦しくても目的を果たした方が自分の人間的な欲望が満足できると考えたときに、前者を「あるがまま」にして、「目的本位」の行動をとるのである。そうした行動をしてきた結果、筆者は自分なりに自分の生き方を実現することができたように思う。(p.184)

森田療法に表明されている人間観・人生観・世界観が僕に及ぼした影響ははかりしれない。今後、人生に迷うたびに、僕は本書を手に取り、読み返すように思う。文句なしの名著である。

森田療法 (講談社現代新書)

森田療法 (講談社現代新書)

評価:★★★★★