乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

泉流星『僕の妻はエイリアン』

オーストラリア出張前に書店でたまたま目に留まって購入し、出張先に持参した。帰りの飛行機の中で読み始めたら、あまりに面白くて、そのまま一気に最後まで読んでしまった。

本書は高機能自閉症者の「妻」と普通の人である「夫」とのちぐはぐな夫婦生活をユーモラスに綴ったノンフィクションである。高機能自閉症(アスペルガー症候群)というのは、一種の発達障害で、知的障害は見られないけれども、自閉症独特の特徴を示す。

その特徴とは? 人の気持ちや場の空気を読めず、人とうまくかかわることが難しい。言葉を文字どおりに解釈し、言外の意味を読み取れない。他人が自分をどんなふうに見ているのかがよくわからない。言葉がうまく使えないか、使えてもいくらか不自然さがあって、人とスムーズにコミュニケーションすることが難しい。特定のものごとに強くこだわり、常に同じパターンで行動することを好む。いつもの生活パターンを乱されるとひどく混乱してしまい、時にパニック状態に陥る。人の顔を覚えるのが苦手である。物事をあいまいにすることができない。あいまいさは不安や恐怖に直結してしまう。感覚が鋭く、特定の音や光に極端に敏感である。等々。

こうした特徴を示すのは、脳のつくりが普通の人と微妙に違うからだそうだ。脳が違えば、当然、世界の見方や感じ方も違うから、行動のしかたも違ってくる。その違いが一種の「異文化摩擦」を引き起こす。しかし、知的障害が見られず、外見上は普通の人であるために、周囲からは「妙にズレてる人」「変わった感じの人」「気まぐれで怒りっぽい人」と見られるだけで、「異文化摩擦」の本当の原因が気づかれることはない。

本書の主人公である「夫」と「妻」は、世界の見方や感じ方が違うために、結婚早々から幾度となくケンカや衝突を繰り返し、疲れ果て、離婚を考えるほどの危機的状況にまで追い込まれる。「夫」は結婚したことを後悔する。「妻」も普通に生活しているだけでどうしてこんなに不安で苦しい気持ちになるのかがわからない。しかし、やがて「妻」は高機能自閉症者特有の「こだわり」を、自分の不安の原因探しのほうに振り向けて、ついに自分がアスペルガー症候群に属するらしいことをつきとめる。衝突の原因がお互いの意識のズレにあったことが判明したことで、夫は一見不可解な妻の言動にもそれなりの理屈があることを理解できるようになり、二人の関係は少しずつ改善され始める。ここに至るまでに、結婚してから実に8年もの歳月が流れていた。「お二人さん、本当によく頑張った!」と拍手を贈りたくなるほどだ。

本書は「他者を理解するとはどういうことか」を根本から考えさせてくれる良質のテキストとして読むことができる。自分のものさしを相手に押し付けないで他者と交わってゆくことの大切さ、困難さ、すばらしさを教えてくれる。何となく「この人、合わない」と感じてしまう人の中には、この高機能自閉症者が含まれているかもしれない。相手の言動の論理さえ理解できれば、つながり合うことは十分に可能だ。相手を変えようとするのではなく、自分の見方を変えることが大切な場合は意外に多いのではないか。

本書は「夫」が夫婦生活をふりかえるという形式で書かれているのだが、実は本当の書き手は「妻」のほうである。他人の立場から自分を見ることを大の苦手とする自閉症者が、あえてその難行に挑んでいるのだ。ここまで「妻」が頑張れるのは、やはり「夫」のことをこの上なく愛していて、世界の誰よりも理解したいという強い思いのなせる業だろう。そういう意味では、本書は一風変わった極上のラブ・コメディでもある。イラストもかわいい。必読だ。

僕の妻はエイリアン―「高機能自閉症」との不思議な結婚生活 (新潮文庫)

僕の妻はエイリアン―「高機能自閉症」との不思議な結婚生活 (新潮文庫)

評価:★★★★★