乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

阿部謹也『北の街にて』

故・阿部謹也さんの小樽時代の回想記。このたび僕が読んだのは1995年に公刊されたハードカヴァーだが、現在は『北の街にて―ある歴史家の原点 (洋泉社MC新書)』との表題(副題が追加)で洋泉社から新書として再刊されている。

阿部さんは1965年に小樽商科大学教養部の歴史学担当教員として採用され、東京経済大学に転出するまでの12年間を小樽で過ごした。名著『ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)』がいかにして生み出されたのか? それがどのようにして「世間」をめぐる思索へと発展していったのか? その謎を解く鍵はその12年間に隠されている。

ひとつの町に長く住むとその人の全人生に大きな刻印が押されることがある。私の場合の小樽はまさにそのような町であった。この町で初めて学問の道を歩み始めた。この町で初めて東京以外の世界を知り、内地とは異なった文化のあり方を知った。そして何よりもこの町で初めてわが国の「世間」の枠組みを知ったのである。学問の面ではほとんど誰とも話し合うことがなかったが、山登りやさまざまな付き合いの中で人と人の関係のあり方を知ったのもこの町においてであった。29歳から41歳までの12年をこの町で過ごしたことになる。なによりも講義の時間数が少なかったからここでは想像以上に勉強することができた。私の学問に何らかの形があるとすれば小樽においてすべて形成されたのである。(pp.265-6)

僕にとっては京都こそが、阿部さんにとっての小樽のような街である。京都で学問の道を歩み始めなければ、僕の学問は今とはまったく違ったものになっていたであろう。間違いなくそう言える。ただ、家庭の事情で少年時代を修道院で過ごした経験が、阿部さんの精神に強烈な刻印を残したように、僕の場合は、串カツ屋の長男として育った経験があまりにも大きい。あまりに強烈な経験であるがゆえに、本人にとって相対化しにくい経験でもある。それを自覚的に相対化して一種の学問的方法論へと高めていくための培養土壌の役割を小樽や京都は果たしたのではないだろうか?

ヨーロッパ史におけるラテラノ公会議(1215年)の重要性については、『大学論』のレヴュー*1ですでに触れたが、本書にはそのラテラノ公会議から「世間」論へのつながりが以下のような明解な言葉で記されている。

ヨーロッパの個人はある時期から絶対的なものとしての神に対して自己を検証するという形で生まれている。少し具体的に言えば1215年の第4回ラテラノ公会議において成人したものはすべて少なくとも1年に1回は告白する義務を負っている。司祭の前で自分が犯した罪を告白するのである。その中には性的な関係も重要な一環をなしていた。わが国では告白のような慣習は全くなかった。わが国にあったのは何らかの集団の中での自己検証である。それが「世間」なのである。(pp.241-2)

そして、この「世間」を学問的探究の対象として定めるきっかけになったのが、最初の引用にもあるように、小樽での生活だったわけだ。阿部さんの文章を読んでいると、その内観・内省の深さ・繊細さに驚かされる。彼にとっては、「洞穴暮らし」の日々がもたらす漠然とした「寂しさ」すらも、学問的考究の対象になってしまうのだ(208ページ以下)。

僕が阿部さんの学問に魅せられ続けているのは、それが学問的論理の緊張感をどこまでも維持しながら、自分史・自己探求でもあることをやめないからである。

自分の内面に深く降りて行って何故自分がこのような課題に関わらねばならないのかを考えることから出発しない学問は私には無縁であった。若かったとき、私はそのような態度は当然のことであり、誰もがそこから出発しているのだと思っていた。どうもそうではなさそうだということが解り始めたのは最近のことである。
・・・大切なことは学問とは関係がないかに見える人や異なった学問を営む人と切り結べる関係を維持することであって、さまざまな学問分野の人が交錯し得るような関係を創らねばならないのである。(pp.238-9)

こういう類の文章が阿部さんの著作には頻繁に登場する。読むたびに勇気づけられる。僕も同じようなことを考えて思想史研究に携わってきたから。実践できているかどうかは自信がないが、このたび公刊した拙著『イギリス保守主義の政治経済学』にそういった思いの片鱗を感じ取っていただけるのならば、著者としてそれに勝る喜びはない。

北の街にて

北の街にて

評価:★★★★☆