乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史』

今ではベストセラー『下流社会』の著者として有名なマーケティング・アナリストの比較的初期(10年前、1999年)の作品である。

アメリカ的豊かさの象徴たる「郊外」的なライフスタイルと価値観が戦後(高度経済成長)期日本にどのように普及し動揺したのかを、社会経済史・文化(風俗)史的手法によって丁寧に考察している。

戦後日本の郊外住宅地(ニュータウン)の代表格は、東急多摩田園都市であるが、それはマンハッタン郊外のレヴィットタウンを模範にしている(p.58)。日本はアメリカに憧れ、レヴィットタウンの大量生産の技術と思想を移植しようとした。消費・産業・職業などに関する統計データを比較すると、両国の間にはおよそ30年のタイムラグがあったことが知られている。「日本はアメリカにおよそ20〜30年遅れながら、1980年代に、1950年代のアメリカに似た社会をつくりあげた」(p.146)。この点に関して非常に興味深いのは、ディズニーランドの開業である。

日本でディズニーランドが開業したのは1983年、アメリカでのディズニーランドの開業は1955年だから、ほぼ30年ほどの差があるが、ディズニーランドのような費用のかかる娯楽産業が大衆に支持されるためには、家計に占める食費などの生活必需的な消費の割合が減少していなくてはならない。
アメリカの家計消費支出に占める食費の割合、いわゆるエンゲル係数はすでに戦前から30%を切っていた。・・・それに対して1950年頃の日本はまだ50〜60%であり、日本でエンゲル係数が30%を切るのはまさに東京ディズニーランドの開業の翌年、1984年まで待たねばならない。(pp.143-4)

アメリカに憧れ、追いつこうとしたまさにこの時代に、「ホワイトカラーの夫、専業主婦の妻、勉学にいそしむ子供(2人)」という家族イメージが普及するわけだが、それは決して典型的・普遍的なものでなく、団塊世代によってもたらされた特殊歴史的なものであった。それゆえ、団塊世代にとって憧れであったライフスタイル・価値観は、後続世代にとってもはや憧れでありえず、むしろ桎梏として作用した。「郊外」的なライフスタイルと価値観は成功を収めたがゆえに、逆説的に種々様々な新しい問題を引き起こした。

郊外を考える上で重要なのは、郊外生活者の多くが、自分の生まれ育った地域から遠く離れて暮らす「故郷喪失者」であるという点である。…地方の農村の出身者も、都市の下町の出身者も、みな郊外に家を買い、生まれ育った地域の伝統や歴史とは無縁の生活を始めた。それが郊外なのである。
さて、この「故郷喪失」と深く関係して、まず郊外の第一の問題と考えられるのが、「共同性の喪失」という問題である。郊外には、生まれた土地も、育った場所も異なる様々な人間が、短期間に大量に移り住んでくるので、地域の共同性が形成されにくいということである。
郊外の第二の問題は、郊外では働く姿が見えないということである。(pp.163-4)

郊外には生産・労働の機能がない。純粋に消費の場である。
生産よりも消費が評価される社会の、生産のない消費だけの場である郊外において、子供たちは、親や教師も消費者として評価するようになる。が、消費者としては子供のほうが一枚も二枚も上手だから、結果として、親や教師の権威が低下するのである。(pp.170-171)

古い世代は郊外の一戸建ての家の中で女性が母親として生きることに十分なよろこびがあると考える。そこに世代の意識の断絶がある。若い世代の間では、そのような高福蔵は急速に力を失いつつある。
郊外は孤独であり、ノイローゼの場ですらある。人間同士のコミュニケーションが難しい。小さな子供がいて一日中家の中に閉じこもっていると、気が狂いそうになる。(p.192)

・・・親にとっては汗水垂らした仕事中毒の報酬として得た小ぎれいな住宅も、子供にとってはただ息苦しいだけの檻かもしれない。親が欲しがった学歴も、これからの時代はあまり価値がなさそうに見える。戦後的な目標をもはや日本人全員が喪失している。・・・。
それくらい「豊な社会」に生きるということは、実は困難なことなのだが、貧しい社会から脱出してきた世代には、それがまったく感覚としてわからない。そこに現代の一つの不幸がある。(p.194)

終戦から50年間、日本人が何をどのように考えて生きてきたのか、それが手に取るようにわかるとても便利な書物である。

以前にレヴューしたけれども、鷲田清一は『京都の平熱』で京都の「隙間」の魅力を声高に説いた。*1。三浦が描く郊外は、画一的・平均的・均質的・機能的であること、無駄・隙間のなさを中心的価値とするわけで、鷲田の描く京都と真逆である。僕が職場に近い千里山や茨木に住むことができず、京都に住み続け、鷲田の京都論にこの上なく共感しているのも、郊外的ライフスタイルと価値が僕の精神を圧迫するからに他ならない。本書を読んで京都の「隙間」の魅力を再確認した次第である。

「家族」と「幸福」の戦後史 (講談社現代新書)

「家族」と「幸福」の戦後史 (講談社現代新書)

評価:★★★★☆