乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

烏賀陽弘道『Jポップとは何か』

8期ゼミのテキスト。HYSさんが選んでくれた。ヴォーカル・トレーニングを受けている彼女は大好きな音楽をテーマとした卒論を書きたいようで、その予備的作業として本書に基づく報告を行おうと思い至ったらしい。

音楽(聞く・演奏する)を趣味にしているゼミ生はこれまでも少なくなく、「卒論テーマに音楽を選びたいんですが・・・」と相談に来られたことが幾度もあったが、僕は「薦められない」と繰り返し返答してきた。音楽のように感覚に強く訴えかけるテーマ(「お笑い」なども同じ)だと、主観的な「好き/嫌い」「思い入れ」の束縛から自由になることがきわめて難しく、データを踏まえた客観的な分析という論文の要件を満たすことが(少なくとも僕のゼミ生には)ほとんど不可能だったからだ。しかしながら、本書は音楽という難しいテーマを論じる際の格好の見本としてお薦めできる一冊である。さすが元朝日新聞記者の著者だけあって、その難業を見事にやってのけた。

本書は、文化・産業としての「Jポップ」――その呼び名ができたのは1988年末ごろであるらしい――を、豊富な取材に基づきながら、経済のグローバル化の進展(その反作用としてのローカル化)、産業技術のデジタル化、メディア(テレビ業界・広告業界)との関わり方の変化などの観点から、多面的に分析している。1968年生まれの僕にとっては同時代史としても読みうる内容で、最初から最後までたいへん面白く読ませてもらった。論理的に書かれているが、記述は決して難解でない。その内容は説得力に富むものであった。

その多面的な分析を手短にまとめることは容易ではないが、本書の根幹をなすのは、以下のような問いである。

「Jポップ」という名前がどんな音楽を指すのか、私もよくわからなかった。そしてこの新奇な名称がある日突然現れたという現象そのものに、興味を持った。・・・「Jポップ」という言葉は一体誰が考えたのか。なぜそんな名前が生まれたのか。それは日本のポピュラー音楽をどう変えたのか。そこを通して見た日本という社会はどんな姿に見えるのか。これが本書の根幹をなす問いである。(p.ii)

この問いに対する著者の答えは以下である。

・・・経済で世界(主に欧米)に比肩しうるような日本が、次に夢見たファンタジーは「文化でも世界でも肩を並べること」であり、88年に生まれた「Jポップ」という名称が消費者に運んだのは「日本のポピュラー音楽という文化が世界に肩を並べるようになった=精神的に豊かになった」というファンタジーだった・・・。(p.131)

「海外でも受容されるインターナショナルなポピュラー音楽」というJポップのファンタジーである(p.171)

このようなファンタジーの背景にあるのは、1980年代に急速に進展した世界経済のグローバル化であり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉に象徴されるように、「日本経済はついに米国経済に比肩するようになったのだ」という大いなる自信である。

また、1980年代には、産業技術のデジタル化が著しく進展し、そのことが音楽を愛好し消費する層を大きく変貌させた。

・・・70年代後半から80年代前半になると、オーディオディスクの生産額は3千億円を目前としてぴたりと伸びが止まってしまう。同時に、再生装置の売れ行きも足踏み状態に入る。「買うべき購買層には再生装置は行き渡った」。そういうふうに言われていてもなお、家電メーカーの参入は増え続け、再生装置は供給過剰状態に陥った。
・・・。
が、そんな行き詰まりを打破する画期的な技術的ブレイクスルーが訪れる。それがCDの登場なのだ。(pp.29-30)

CDが登場するまでのアナログ時代、レコードプレーヤーにアンプ、スピーカーなどコンポを揃えてLPを楽しむことができたのは、購買力の高い層だった。その中心は成人男性である、いわゆる「オーディオ」は「大人の男の高級な趣味」だったのだ。(p.42)

ところが、CD時代になって女性や若者が新しい顧客の仲間入りをしたことで、成人男性の顧客としての比重は相対的に低下した。(p.45)

さらには、この時代以降、音楽とマスコミとの関わり方も大きく変化した。テレビとのタイアップの強化は、音楽産業の規模を拡大したものの、音楽表現の多様性の喪失という皮肉な結果を生んだ。

「音楽」「テレビ」「広告」が合流して「Jポップ産業複合体」が生まれた。Jポップ産業複合体は、「音楽」「テレビ」「広告」が共存する新しいメディア空間を生んだ。レコード会社は、その新しいメディア空間をその活動舞台として当初から想定した人材を開発した。(p.98)

広告の表現基準がポピュラー音楽に持ち込まれた。・・・広告は基本的に、最大多数の消費者が商品を購買するよう説得するのが目的であり、そのため「社会のマジョリティが合意済み、あるいは合意可能」な表現の範囲内でつくられる。逆に音楽表現は本来、マジョリティの合意を目的としない。マジョリティが合意していなくても、ふだんは社会に届かないような少数の人々の声を言葉にしたり、マジョリティが気づかないような内容を歌にして世に出したりできる、極めてレンジの広い表現形態である。しかし、タイアップの成功のせいで、日本のメジャー音楽産業は、この広い表現レンジの大半を自ら放棄してしまった。その意味で、タイアップの力でヒットチャートの上位に顔を出すような曲は、最初から表現の多様性を放棄し、最大多数が合意可能な範囲でつくられている。(p.102)

日本のポピュラー音楽は「Jポップ化」することによって、音楽としての質を低下させたのだ。1998年以降の音楽産業の不振(CDの売上げの急落)の一番の原因は、「インターネットからの不法ダウンロード」でも「逆輸入盤」でもなく、「製品」である「楽曲」の質の低下にあるのではないか? 著者はこのように問題提起して、本書を終えている(p.228)。

本書でいちばん印象深かったのは、ずいぶん昔から個人的に抱いていた疑問「なぜ日本の歌手はネイティブに通じない疑似(和製)英語で歌うのか?」に対して、著者が明確な解答を示してくれていたことである。

実は、Jポップが持つ「日本のポピュラー音楽が外国と肩を並べた」というファンタジーそのものが、この「外国と肩を並べたポピュラー音楽を愛好する自分を好ましく感じる」「自分も外国と肩を並べたかのように感じる」という消費者の自己愛的な嗜好を先読みしたマーケティングの産物だともいるのである。(p.155)

90年代になって、日本人を相手に、つまり国外ではレコードが発売されていないのに英語の歌詞を歌う歌手・バンドが増えたことも、そうした聴き手のファンタジーをかなえることを商品価値として狙ったものと考えるとわかりやすい。
筆者はかつてBONNIE PINKTRFブリリアント・グルーンなどが歌っている英語歌詞を検証し、そのほとんどが英語として成立しないことを指摘したことがある。・・・宇多田ヒカルを唯一の例外として、残りは英語歌詞として成立するものはひとつもない・・・。
では、なぜ疑似英語を日本人相手に歌うという奇妙な現象が後を絶たず、聴き手もそれを問題とは感じないのだろうか。
ナルシシズム消費の文脈で考えれば理解しやすい。そうした音楽を購入する消費者にとって重要なことは、それがたとえ疑似英語であっても「自分と同じ日本人歌手が英語で歌う」ことであり、「それをカラオケで歌っている自分を好ましいと思う」「そのCDを所有している自分を好ましいと思う」ことなのである。
こうした「英語で歌う日本人」を愛好する聴き手が、欧米の英語ネイティブが母国語で歌う音楽(つまり洋楽)を愛好しているかというと、必ずしもそうではない。そうした日本の聴き手が求めているのは、あくまで「英語(のような言葉)で歌う日本人」=「インターナショナルに見える日本人」なのである。その商品価値は「インターナショナルに見える」だけで十分に満たされる。(pp.158-60)

「見える」だけなのは恥ずかしいという感覚が、どうしても僕にはある。「インターナショナルに見える」だけでは満たされない。「インターナショナルでありたい」という気持ちが(それほど強くはないけれど)あるからこそ、今も英語を勉強している。それゆえ、正しい英語へのこだわりも強い。しかし、「それがナルシシズム消費であろうとなかろうと、音楽の楽しみ方は人それぞれじゃないか?」と抗弁されると、それに反論しづらいのも確かである。

Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)

Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)

評価:★★★★☆