乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

なだいなだ『神、この人間的なるもの』

著者は精神科医無神論者であるB(著者)と、同じく精神科医カトリック信者である大学時代の友人Tとの対話という形式をとっている。単純に読み物としておもしろいし、今まで読んだ宗教論の中ではいちばん共感できる内容だ。本書の核心をなすのは、以下の対話だろう。

B「宗教とは何かね」
T「おれの考えだけど、簡単に言えば、孤独から人間を救い出し、一つにまとめるための原理だ。唯一神はそのために創り出されたのだ」
B「人をまとめるための原理ね」
T「それもなるべく簡単な原理」(p.180)

本書のおかげで、これまで自分が抱えていた様々な問題の所在が、かなりすっきりと整理できた気がする。いちばん興味をひいたのは、信仰と教義の関係という問題だ。「親が・・・教だったから自分も・・・教に入信した」というケースは、決してカトリックイスラムといった古い宗教に限られるわけではない。戦後新興宗教と呼ばれる(例えば創価学会のような)宗派でも、今や信者は二代目・三代目に入っている。気がついたらその宗教の信者だったというような場合、その人にとって信仰は呼吸のようなものだ。信仰をそのようなものとしてとらえるならば、教義をいくら研究しても信仰の本質には近づけない、ということになる。

教義よりその集団に属することが重要なのだ。自分がその集団に受け入れられたと感じて安堵するのだよ。(p.41)

教義なんてあとから作られたものさ。大部分の信者にとって重要なことじゃない。(p.47)

結局、著者の宗教論は、「人をまとめるための原理」としての宗教へと収斂していく。しかし、僕たちはそうした原理が狭義の宗教の専売特許ではないことを知っている。マルクス主義の歴史の大部分は異端審問の歴史ではなかったか?

資本論は科学だったかもしれない。しかしマルクス主義運動になったら宗教だ。運動を支える底辺にとっては、資本論が学問的に正しいかどうかなんかなんてどうでもよい。それを通じて集まった仲間を信じるのさ。いわば神様やあの世や天国を持ち出さない、新しい宗教と思って参加したのさ。(p.42)

一番の不幸は、仲間意識はグループが小さい方が強いということだ。だから、《同じキリスト教徒》という意識よりは、《同じカトリック》《同じプロテスタント》という意識の方が強い。だから《同じキリスト教徒》が殺し合いをする。さらにプロテスタント内ゲバで殺し合う。もしその反対なら、人間の不幸がどれだけ避けられたか。(p.182)

経済思想史家の端くれとしては、マルクス主義とは何だったのか、という問題を避けることはできない。マルクス主義運動が生み出した様々な災禍を、運動を率いた人間個人の責任だけに帰することができるのか?この問題を本気で考えようとすれば、僕の場合、どうしても科学と宗教との関係という問題にたどりついてしまうのだ。本書はこの問題を考える上での格好のヒントを提供してくれている。

また、「善と悪、天国と地獄という考え方はキリスト教の教義の重要な部分ではなく、むしろ古い部族時代の迷信の復活なのだ」との指摘は、9・11以後の世界を考える上で、たいへん示唆に富んでいる。さらに言えば、その善悪二元論批判は、著者自身が長年従事してきた精神医療の論理に反省を促すものでもあった。

病気が治せるという妄想。治すのが自分たちの仕事だという使命感。そして治すためなら何をしてもいいという確信。それは善と悪の二元論から出ている。それがいつの間にか精神科医を迫害者に変えた。後戻りした宗教の狂気から、せっかく病人を取り戻したというのに、精神医療もまた一種の狂気にすぎなかった。(p.165)

その他、「部族社会においては、自分から精神の病気になることによって、社会のストレス、絶望と不安から脱出することができた」という件(pp.171-5)は、演技することの喜びにとりつかれた役者の心の奥をえぐっているようにも思えて、演劇にどっぷりとつかった学生時代を送った僕には、すごく腑に落ちた。

小著だが読み応え満点の一冊だ。一読を強く薦めたい。

神、この人間的なもの―宗教をめぐる精神科医の対話 (岩波新書)

神、この人間的なもの―宗教をめぐる精神科医の対話 (岩波新書)

評価:★★★★☆