著者曰く、「本書は著者のマルクス研究のうち重要な部面のエッセンスをコンパクトにまとめたもの」(p.270)で、「学界・研究者たちのあいだで進行しつつある「読み返し」の一端を披露することによって、鞏固な既成観念となっている俗流的な“マルクスの思想”像を矯正・一新すること、それが本書の意想とするところ」(p.19)とのこと。1989年にベルリンの壁が崩壊し、1991年にソ連邦が解体した。マルクス研究者にとって、本書が刊行された1990年は、マルクスや共産主義についてポジティブに語ることが一気に困難になった、厳しい冬の時代だった。
本書は後期の大学院の授業のテキストに決まっている。読むのは今回が2回目だ。手もとの本には「1993年5月3日読了」との書き込みがある。1993年4月に僕は大学院に入学したから、入学直後に本書を読んだことになる。どうしてその時期に本書を手に取ったのか、記憶が定かでないのだが、おそらくN村先生の授業(社会思想史研究)で『ドイツ・イデオロギー』の報告があたり、その準備のために読んだような気がする。廣松の文章は難解な漢語が頻発して読みにくいことで有名だが、本書は例外的にわかりやすくかみくだいて書かれている。そのおかげなのか12年前も数日で読破している。
第1章では、マルクスが切り開いた新しい世界観としての「関係主義的世界観」が解説され、第2章では、『資本論』の思想的核心としての、賃金奴隷制としての資本-賃労働制が解説される。第3章は、マルクスの資本主義批判、未来社会への展望を、賃金奴隷制の廃絶・克服、(社会主義とは区別された)共産主義との関連で説いている。社会主義の崩壊にともなう俗流マルクス主義批判の高まりに対する、著者の怒りと嘆きがストレートに伝わってくる。文献学な考証にもとづいて、著者ははっきりこう述べる。唯物史観は「いわゆる経済決定論ではない」(p.69)と。また、「マルクス本人は、「社会主義社会」なるものの建設を唱えたこともなければ、「国有化」「国家経営」を積極的に主張したこともありません」(p.207)と。
12年ぶりに「読み返し」てみたが、僕のマルクス思想への関心の所在(実存主義的マルクスvs構造主義的マルクス)が12年間ほとんど変わっていないせいなのか、新しい発見はあまりなかった。印象に残った表現は12年前にすでに線が引いてあった。イギリス思想史研究者として気になった叙述を一つだけ引いておく。
人間の意識というものは、マルクス・エンゲルスの指摘を俟つまでもなく、ともかく現にある事実を追認してしまい、その現実を追認的に合理化・正当化する傾向があります。・・・当該社会体制の物質的諸関係を追認・・・する観念形態・思想なのですから、それはまさに、「支配的階級の思想」になります。(pp.52-3)
イギリス思想史の文脈においては、人間が眼前の理由を追認しがちであるという事実は、ヒュームの観念連合や黙約の理論、バークの時効の理論などによって、積極的に評価されているように思われるが、そうした保守的自由主義の知的営為が「支配的階級の思想」として十把一絡げに貶められてしまうと、さすがに議論として乱暴・浅薄な気がした。
3章後半の革命論には相変わらず興味が持てなかった。なぜ理想に満ち溢れた未来社会の構想が陰惨な分派闘争をもたらしたのかを、著者自身の言葉で説明して欲しかった。内田樹は、『寝ながら学べる構造主義』の第1章で、構造主義前史として(フロイトやニーチェと並んで)マルクスをとりあげているが、ここで解説されているようなマルクスの(地動説的)人間観は、廣松の関係主義的世界観とどの程度重なっているのだろうか? 僕にはその違いがいまだによくわからない。
僕はマルクス研究者ではないし、マルクス主義者でもない。ただ、ヨーロッパの思想史を広く見渡してみた時、マルクスは決して視界から消え去ることのないひときわ大きな峰だ。目の前に大きな峰がそびえているのに、見えていないふりをして、他の小さな峰のことしか語らないのはやはり不自然だ。俗流的なマルクス批判に汚染されないためにも、これからも僕はマルクスを(断続的・自己流ではあれ)学び続けるだろう。
- 作者: 廣松渉
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