乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

広井良典『ケアを問いなおす』

4期ゼミの後期最初のテキスト。N君が選定。コンパクトなボディに似つかわしくない重厚な内容だ。3度読んだが読み返すたびに新しい発見があった。

「老人ケア」「ターミナルケア」等々、今や「ケア」という言葉は日常の様々な場面で用いられており、超高齢化社会を迎えつつある21世紀日本のキーワードと言ってもよいほどだ。しかし、いざ「ケアとは何だろうか」と問われれば、多くの人が答えに窮すると思う。それはケアが元来非常に幅広い意味を持つ言葉であり、多くの問題領域と関係を有している――著者の言葉では「マージナル」「境界的」「越境的」(p.187)――ために、医学であれ、社会福祉学であれ、経済学であれ、特定の学問領域にもとづく知見だけでは、ケア問題の全体像を描き出すことが困難だからである。

しかし、著者はケア問題の全体的な見取り図を、三つの側面――①個々の現場での「ケア」のあり方をめぐる技術論の側面②個々の現場を超えた(経済面を含めた)制度論・政策論の側面③死生観・時間論に関わるような哲学・思想的な側面――から見事に描き出した。「法律専攻→科学哲学専攻→官庁で法律担当→大学の経済学科で社会保障論担当、という具合に紆余曲折のあるルートをたどってきた」(p.229)著者ならではの大仕事だ。

本書の核となるのは第2章と第6章だと思う。換言すれば、本書がいちばん力を傾注しているのは、ターミナルケアをめぐる議論だ。ターミナルケアの問題は我が国の今後の医療・福祉供給体制を構想する際の中軸として位置づけられている。第2章のタイトル「死は医療のものか」は、より正確には、「ターミナルケアをめぐる問題は医療の問題かそれとも福祉の問題か」となるだろう。著者の説くところによれば、

少なくとも日本では、ターミナル「ケア」をめぐる問題は「医療」の問題として議論されることが多い。しかしそのようなとらえ方で本当によいのだろうか。
・・・ターミナルケアが「医療」の問題として論じられるかぎり、どうしてもそれは苦痛緩和の問題であったり安楽死の境界線引きの問題であったり等々と、どうしても「技術論」に傾いてしまう。・・・。
一方、病院というものの性格、役割やスタッフの配置状況を考えても、医療機関が、メンタルな面や家族を含めた「ソーシャル・ニーズ」まで視野に入れた、積極的で長期に及ぶターミナルケアを行うことにはどうしても限界がある。というより、病院というのはそもそもそういう対応をするべき施設ではないのである。むしろ・・・「福祉」がターミナルケアの相当部分を担うことで、ターミナルケアに新しい可能性が開けるのではないか。そして、ターミナルケアを、単に苦痛を緩和するとか、延命治療をしないといった方向でとらえるのではなく、「たましいのケア」ともいうべき要素を含む、よりポジティブなものとして実践していける可能性が開けてくるのではないか。(pp.58-60)

ターミナルケアにおいても、医療・福祉供給体制においても、今後の基本的な方向は「医療から福祉へ、施設から在宅(地域)への転換」だと、著者は明言する(p.96, 118)。しかし、こうしたシステム改革には、財政的裏づけばかりでなく、それ以上に、改革を根底から支える確固たる理念・哲学も必要だ。だからこそ著者は第6章で「ケアの本質」を円環的時間認識(人生イメージ)との関連で執拗に論じているのだ。

ターミナルケアに求められているのは・・・「深層の時間」*1への通路を用意し・・・「たましいの帰っていく場所」を確かめ、いつでも死を迎えられる心の準備を可能とさせる舞台をつくることではないかと思えるのである。(p.207)

僕は父を2004年12月に亡くした。死因は肺がん。末期まで自覚症状はなかった。同年2月に余命10ヶ月と診断され、診断どおり10ヶ月後に父は永眠した。その10ヶ月間、家族(特に母)が「舞台をつくる」ことに心を傾けたおかげなのか、父は本当に安らかに最期を迎えることができた。園芸好きだった父。苦痛緩和のために投与する薬が何であるかよりも、自分が大切に育ててきた庭の植木を見ながら毎日を過ごせるかどうかのほうが、父に生の意味と性への意欲を与えてくれたことは確かだと思う。不遇な子ども時代を送った父は、円環的な時間イメージの中で、再び子どもへと帰っていって、幸せな子ども時代を取り戻したのだ、と息子としては信じたい。

本書から教えられたことは本当に多い。そもそも僕は看護職と福祉・介護職との関係について思いをめぐらしたことなど一度もなかった。無知を痛感した。従来の高齢化問題としての「65歳問題」と新しい高齢化問題としての「80歳問題」との概念上の差異を明快に説いた第3章は、まさしく「目からウロコ」であった。見田宗介現代社会の理論』を批判的に継承して、「情報の消費」よりむしろ「ケアの消費」をもってこれからの経済社会を構想すべき、とした第4章も啓発力に富んでいた。

第1章は蛇足あるいは眉唾の感もあるが、そんなことで本書の価値は損なわれない。ケアって本当に深い! それを教えてくれた本書に感謝したい。

ケアを問いなおす―「深層の時間」と高齢化社会 (ちくま新書)

ケアを問いなおす―「深層の時間」と高齢化社会 (ちくま新書)

評価:★★★★☆

*1:著者のように「深層の時間」を「生者と死者が出会う場所」「生者の時間と使者の時間がクロスする場所」としてとらえるならば、その発想の延長線上にエドマンド・バークの社会契約論を位置づけることも可能かもしれない。