乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

山田太一『異人たちとの夏』

先日読み終えたばかりの広井良典『ケアを問いなおす』で紹介されていたファンタジー(orホラー)小説。

広井さんによれば、哲学的意味におけるターミナルケアとは、「たましいの帰っていく場所」としての「深層の時間」をともに確かめる営みである。そして、我々の意識の深部には生と死の連続性・接点、生者と死者との出会いというイメージが潜んでいて、だからこそ、それを描いた映画や文学作品等が数多く存在し、我々の心に力強く訴えかけてくるのだ。そうした文学作品の一つとして、本書は紹介されている。

こんなストーリーだ。主人公原田英雄は48歳のシナリオ・ライター。妻子と別れたばかりで、孤独な毎日を送っていた。夏の盛りのある日、彼は幼い頃に暮らしていた浅草をふと訪れる。そして、そこで36年前に死んだはずの両親に偶然出会ってしまう。二人はかつての若々しい姿を保っていた。自分より若い両親などありえない。彼らが現実の存在ではないことに薄々気づきながらも、原田はこみあげてる懐かしさに抗しきれず、浅草の両親の家へ頻繁に通うようになる。

家族三人水入らずの温かい団欒を描く筆致が素晴らしい。特に以下の一節を読んだ時、一昨年に永眠した自分の父のこと――元気な頃の分厚い掌、死に行く前のか細い指――を思い出して、涙が止まらなくなった。

ここにいる父と母は昔の両親ではなく、私の頭の中の産物であり、本当の死んだ父と母は、どうあがいても帰っては来ないのだ。こんな自慰行為は打ち切らなければならない。
しかし一方で、目の前の両親の、少しも幻想じみたところのない存在ぶりを見ると、どうして頭の中の産物などといえるのか、とも思うのだった。
「お父さん」と私は言った。「握手をしよう」
「握手?」
「帰るの? もう」
「夕飯食って行けよ。いいじゃないか」
こういう二人の言葉も、私がいわせているのだったら、なんと淋しいことだろう。
「帰らないよ。ただ、握手をしたくなったんだ」
「よし」
父が手をさし出した。私はしっかり握った。握り返す力も感じた。自分で自分の手を握っているのではなかった。
「よおし」と母が手を出した。少し荒れているかもしれないが、父と比べれば柔らかな小さな母の手だった。
私は感触を身体で覚えようとした。(pp.108-9)

両親が主人公に永遠の別れを告げる浅草のすき焼き屋のシーンでは、このシーン以上に大泣きしてしまった。どうしてこんなにも涙が流れてしまうのか? 「もっと父と(に)・・・べきだったのに」という後悔の念だけではないように思う。普段は心の奥底へと追いやられている「無条件に自分を受け入れてくれる場所」への本源的欲求が、堰を切って流れ出てしまったからだろう。主人公が父母に寄せる思いのすべてを、僕は自分自身の思いと重ね合わせることができた。

この小説を読んでいる間、僕はただの一人の息子に戻ることができた。幼少時の大半を過ごした小さな大衆食堂と、厨房の中でせわしなく働き続ける父母の姿がありありと思い出された。僕のすぐ横にはおそらくまだ小学校にあがる前の妹の姿が。店が忙しいと閉店時刻の11時まで晩ご飯が食べられなかった。その時の空腹感までもが今となってはとても懐かしい。自分の人生の原風景だ。

残された母を大切にしなければ、と改めて思った。ところが、いざ本人を目の前にすれば、なかなか素直に振舞えないのも事実なのだが。そんな自分がもどかしい。

なお本書は長瀬修さんが「東大教師が新入生にすすめる本」として紹介している。*1大林宣彦監督によって映画化もされている。*2

異人たちとの夏 (新潮文庫)

異人たちとの夏 (新潮文庫)

評価:★★★★★ (本音は★★★★★★★★★★)

*1:http://www.utp.or.jp/bulletin/up0404/15.html

*2:残念ながら僕はまだ見る機会を得ていない。