乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

辻信一『スロー・イズ・ビューティフル』

著者は文化人類学者。「スロー」をキーワードに、「効率性(スピード)」に象徴される現代社会に抗するライフスタイル――「低エネルギー・共生・循環型・平和非暴力のスローでビューティフルなライフスタイル」(p.242)――を模索している。

本書がそのタイトルをもじったE・F・シューマッハー『スモール・イズ・ビューティフル』は文句なしの歴史的名著だが、僕は本書を『スモール・・・』に劣らず大きな感動とともに読んだし、本書の学問的射程の大きさは『スモール・・・』以上だと思う。もともと身体論の本として企画されたが、そこに著者の環境運動家としての実践と「人類学というものがどう現実社会におけるぼく自身の日常生活に「応用」されうるのか」(p.210)という人類学者としての悩みがプラスされた結果、グローバリゼーション論、時間論、消費論、労働論、余暇論、環境論、文化論、身体障害者論、コミュニケーション論、性愛論、家族論などのすべてを包摂するスケールの大きな現代社会論が生み出された。僕は本書によって長年の関心であった「環境問題」「環境教育」と思想史家としての仕事(18世紀ブリテンにおける時間認識の研究など)を結びつけることができた。

本書は文章それ自体が大きな魅力を放つ上質のエッセイ集でもある。著者は「この本には何か目新しい理論のようなものがあるわけではなりません。特に理論に詳しい人にとっては、むしろ古いことの蒸し返しという感じがするかもしれない」(p.12)と断っている。確かにそうかもしれない。厳密な意味での学術書とは言えないだろう。印象に残った叙述の多くは他人の著書からの引用だ。しかしその引用の仕方が絶妙なのだ。乙武洋匡五体不満足』(第8章)しかり。イバン・イリイチの「根源的独占」(第9章)しかり。一番印象に残ったのは第6章の次の一節。

多田道太郎は、今から30年前の日本でこう嘆いていた。世の中には勤勉の思想ばかりがはびこって、なぜ怠惰のイデオロギーがないのか。経済学ばかりが流行って、なぜ怠惰学がないのか。・・・。
多田は「怠惰の思想」の中でこんな江戸小ばなしを紹介している。
年寄「いい若者がなんだ。起きて働いたらどうだ」
若者「働くとどうなるんですか」
年寄「働けばお金がもらえるじゃないか」
若者「お金がもらえるとどうなるんですか」
年寄「金持ちになれるじゃないか」
若者「金持ちになるとどうなるんですか」
年寄「金持ちになれば、寝て暮らせるじゃないか」
若者「はあ、もう寝て暮らしております」
多田が指摘するように、この江戸時代の年寄と若者の会話は、そのまま、「北」の先進国のエリートと「南」のいわゆる発展途上国の庶民との間の、開発をめぐるやりとりに当てはめることができる。(pp.117-20)

「地球上の人間みんなが北米人のライフスタイルをするには少なくとも地球が4つ要る」(p.98)らしい。この冷酷な事実を前に、我々年寄(先進国のエリート)は若者(発展途上国の庶民)にいったい何を望むのか? 果たしてそこに自己欺瞞はないのか? いちばん肝心な問いを我々は忘れている。いや、意図的に忘却しているのかもしれない。

著者は本書の中で何度も「科学技術が省いてくれた時間はどこに消えたのか」と問うている(p.22, 94, 97)。読者は、本書を読み進めるうちに、このシンプルな問いがどれほど大きな学問的可能性を孕んでいるかを知って、静かな知的興奮に包まれるだろう。

ライブラリー版に付された藤岡亜美氏による解説が秀逸だ。ぜひとも単行本ではなくライブラリー版を読まれたい。一文だけ引用しておく。

『スロー・イズ・ビューティフル』の大きな功績は、この本が身体論の本の企画として始まり、これまで一緒に語られることのなかった「身体障害の問題」と「環境問題」をつないだ点にある。(p.251)

繰り返しになるが、本当にスケールの大きな本だ。これこそ真の相関社会科学だと思う。僕の大学院の授業に出席しているM本君、ぜひ読んでみて下さい。ラオス研究にもきっと何らかの役に立つと思う。

スロー・イズ・ビューティフル (平凡社ライブラリー)

スロー・イズ・ビューティフル (平凡社ライブラリー)

評価:★★★★★