乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~

イギリス思想史を研究する大学教員の読書ノートです。もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。

藤野美奈子・西研『不美人論』

かつて上原専禄はまだ学部生だった愛弟子・阿部謹也に「(卒論は)どんなテーマでもかまわない」が「どんな問題をやるにせよ、それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探すのですね」とアドバイスした。阿部『自分のなかに歴史を読む』の12-3ページに記されているエピソードなのだが、たまたま僕はそれを関大着任直前に読み、かなり大きな影響を受けた。関大の学生の大半は研究者を志望して入学するわけではない。自分の専門的研究分野(経済思想史)にはとらわれずに、学生自身が心から切実に感じている問題をとことん考え抜くための機会を与えるべきではないか。これが僕のゼミ運営の基本方針となった。

このような僕の方針に忠実だったのかどうかは定かでないが、3期生Fさんは卒論テーマに「容姿の美醜の哲学的考察」を選んだ。何て率直で切実なテーマだろう! けれどもこれほどまで率直かつ切実なテーマを指導するとなると、正直、かなり荷が重い。果たして男の僕に指導できるテーマなのか・・・。Fさんが参考文献の一つに本書を挙げていたので、読んでみることにした。

本書は漫画家・藤野美奈子さんと哲学者・西研さんとが不美人(ブス)について対談したもので、藤野さんのブスゆえの苦悩に西さんが哲学的な解説を加えるという形式をとっている。不美人というテーマは一種の社会的タブーと言ってよいだろうが、藤野さんはタブーの限界に挑戦するぞとばかりに、ブスの本音を西さんに洗いざらいぶちまけている。セックスや整形美人は当然話題にのぼっている。林真理子、谷(田村)亮子、保田圭山田花子光浦靖子といった多くの有名人が実名のまま議論の俎上に乗せられている。

他方、受け止める側の西さんだが、彼は「(他者からの)承認」をキーワードに美醜問題と哲学とを架橋する。本来「承認」は「愛情関係」と「役割関係」の両方において得られてきた。しかし、1980年代以降の消費社会化の進展は、「役割存在として生きる」ことの意味を希薄化させ、「快楽を求めるために生きる」ことが普通の自然な生き方であるとの人生イメージを流布した。その結果、人間関係を愛情関係としてしかイメージできない人々(特に若者)が増えてきた。「美醜を評価しあうゲーム」に多くの人々が巻き込まれるようになった。

(西) そうすると、友だち関係はすべて愛情関係にあって、おたがいに「好かれるか/嫌われるか」ということしかなくなる。これの怖いところは、相手に強くものが言えなくなることだよね。相手を非難できない。文句も言えない。とにかく嫌われたくない。嫌われたらどうしようって、いまの若い子はすごく恐れている。まえに大学生に「あなたが一番怖いことはなにか」という課題で文章を書いてもらったんだけど、ナンバーワンは「友だちに嫌われること」だった。(p.155)

明日からニーチェ道徳の系譜』の読書会がスタートするが、タイミングよくこんな対話に出くわした。本書の雰囲気をよく伝えていると思う。

(西) ・・・そもそも、多くのフェミニストが「女性を美醜で評価すること自体が悪だ、美の秩序自体がよくない」というふうに考えているでしょ。・・・ぼくたちは、美醜の秩序のなかで苦しんだり悩んだりして生きているわけで、それから切り離して自分がいるわけではないでしょ。「じゃあどうやってそのなかを生きていけばいいのか」という問題は、考えられなければいけない。「女性を美醜で評価してはいけない」の一言でかたづけたら、思考放棄になる。
(藤野) そうですよ。思考放棄ですよ。故障をひとつひとつ調べるのをやめて、電源から切っちゃうようなもんだよね。・・・「ヤな性格の美人が得をする」のがすっごくイヤ。でもって、ブスが努力してもなかなか報われない感じがくやしい。ヤな性格の美人がブスをバカにしてるのを見ると、ホントに頭にくるの。お金持ちに生まれた人が、働いたこともないくせに貧乏人をバカにするみたいな不快感なの。
(西) そうか。そう言われてかなり感じがわかった。なんの根拠もなく見下されているような不快感なんだね。――でもさ、この「徳福一致の難問」って、難問というぐらいだから、結局まともな答えはでないんだよね。「善行をつんだ人は、死んだ後には神さまが天国に連れていってくれます」というのが標準的な答えなんだけど、そういうのじゃ救われないでしょう。それに、この難問の〝核心〟は世界に対する不条理感と恨みなんだから、この恨みをどうやってほどいていくか、と考えなくちゃいけない。
(藤野) 世界に対する不条理感と恨み・・・。敵はヤな性格の美人じゃなかったのか。でも納得! 美醜問題を考えるときのやりきれないような思いは、世間に対する不信感、失望感にすごく通じていると思う。
(西) ヤな性格の美人はぼくもイヤだけど、やっぱり本当の敵はそうじゃないんだと思うよ。生きるうえでのほんとうの敵は不条理感や恨みのほうだ、とぼくに教えてくれたのはニーチェ。・・・ニーチェがいうのは、それぞれの人がそれぞれの生の条件のなかに投げ込まれて生きるしかない。でもその条件は明らかに不公平で、どうがんばっても変えられないこともたくさんある。だから悔しくて悔しくて仕方がなくなって、敵を呪い親を呪い社会を呪い人生を呪う。でも、「人生を恨んで生きるのも、与えられた条件のなかで歓びをくみとろうとしてして生きるのも、君の自由さ。どっちの道を君は選ぶのかい?」というのがニーチェのメッセージだったんだ。(pp.60-4)

さて、本書は男性にとっていかなる意味を有するか? 僕は、女のブス問題は男のブオトコ(特にハゲ)問題とかなりの部分で似通っている、と単純に思い込んでいたのだけれど、本書を読むかぎり、そうではないようだ。藤野さんによれば、そうした議論は男と女が背負っているシリアス度を無視している。女性は生まれながらに男性以上にシリアスなものを背負わされている。だからこそブスはブオトコにくらべて「どっかシャレにならない」(p.141)。あなたは女性芸人の芸をどこまで素直に笑えるか? 痛々しさを感じる時がないか? 久本雅美とパイレーツと清水みち子の笑いを比較した第9章*1は本書の白眉だろう。笑いから人間の存在の本質に迫っている。高く評価したい。

本書全体を通じて、「恨みを解きほぐして前向きに生きよう」という激励のメッセージが強く出ているのだが、美醜のシステムそれ自体の不変性・固定性が所与とされているわけではない。美の新しい基準を提案してシステムを揺るがした存在としてヤマンバ・ギャルに高い評価が与えられていること(p.121, 262)は、強調しておくべきだろう。「社会システムをどういじっていくか」と「ひとりひとりがその苦しさをどういうふうに自分のなかでとらえなおして生きていくか」――このような複眼的な思考法の重要性を丁寧に語ってくれているのが西さんの哲学の魅力の一つであり、僕たちが本書から学ばなければならないものだと思う。

不美人論

不美人論

評価:★★★★☆

*1:章のタイトルが強烈すぎる。「ブスだとオチンチンが立たない――内面を磨けなんて嘘だ!」なんて。